Beiser, The genesis of Neo-Kantianism, Ch. 9.5--9.6

Frederick C. Beiser, The Genesis of Neo-Kantianism 1796–1880 (Oxford: Oxford University Press, 2014), Ch. 9.5–9.6

5. 唯物論のカント的批判

『唯物論史』においては,特にその第二版においては,ランゲはカントを非常に重視している.ランゲによればカント哲学は「終わりの始まり,悲劇のカタストロフィー」であり,カント以後の唯物論はカントを乗り越えられていないのである.

ランゲがカント哲学のなかで重視するのは,その理論理性に関する批判である.カントは唯物論に二つの難題を突き付けた.ひとつは,唯物論の素朴な実在論である.カントは感覚されるものがすべてわれわれの知覚や認知の仕組みに依存していることを明らかにしたし,また最近の感覚生理学によれば,われわれの知覚は神経系の構造に制約されている.もうひとつの難点は,因果的必然性である.カントはヒュームの懐疑論を引きながら,因果性は物自体ではなく認知の仕組みのなかにあると説いた.これらはカントが独断論的と評したものであり,唯物論者はまさに自身が独断論に陥っている.カントの批判哲学は,われわれの世界についての思考法が主観的な起源を持つことを明らかにしてくれる.

ランゲによれば,唯物論者は原子の存在を素朴に信じていることでも誤っている.ランゲにとって原子は,データを説明するための構成物に過ぎない.たしかにドルトンやゲイ-リュサックらの原子論はきわめて直観的である.しかし,直観的であることは,それが現実にあることを意味しない.そもそも,最近の物理学・化学によれば,原子は力の中心とみなされており,ますます非直観的になっている.また,力とは,物理学者が現象を記述し,予言するときに使う数学的な式を擬人化したものい過ぎない.

カントは唯物論を批判した.しかし,他方で,カントには唯物論的な側面も見える.ランゲによれば,カントは唯物論と対立しているのではなく,むしろ唯物論にきわめて近い.唯物論は批判哲学に至るための不可欠な段階であり,その的はむしろプラトン的な観念論であると言える.ランゲの見立てでは,批判哲学は唯物論の長所(経験的,機械論的,唯名論的)を保ちながら短所(独断論的)を克服した立場であり,批判的唯物論あるいは現象論的唯物論と呼べる.

6. ランゲと物自体

ランゲは,カントの批判哲学と唯物論を親和的なものとみなしていたが,ここでひとつ重大な問題が現れる.物自体である.物自体は,自然主義的な説明に制限を設けるために導入されるからだ.ランゲは結局,物自体という概念に対して最終的な解決を与えることができなかった.

『唯物論史』初版では,ランゲは物自体の存在を擁護しようとしていた.物自体はわれわれの持つ因果性の世界の限界を超えているとはいっても,われわれは経験すべてを集めることによってその外側にあるものの存在を推論することができる,というのである.だがここには問題がある.このような推論によって保証される物自体は,結局のところ因果性というカテゴリーによってのみ保証される現象にすぎないのであり,そうすると現象と物自体という区別はすべて現象界の内側に落ちてしまうのである.だから,われわれの認知能力を調べると,異なる認知能力を持つ生物は異なる現象界を持つことになる.

『唯物論史』第二版では,ランゲはむしろ物自体を排除しようとしている.もしわれわれの知識がすべて可能な経験の枠内に限定されているのだとしたら,物自体という超越論的な対象が存在するなどとは言えないはずなのだ——このような対象に対する言明は,カントの方針に反する.しかし,ランゲは徹底的に物自体を排除することには成功しなかった.『唯物論史』第二版には,物自体の存在を前提している箇所が随所にあるのだ.たとえば最終章には,われわれの認識する表象が,われわれの外部の何かに由来するという言明が見える.また,われわれの事物の認識の仕方が,唯一の認識の仕方というわけではなく,認識主体に応じて多様な認識の仕方がある.このようにしてランゲは物自体を再発見したのであった.これはリープマンと同様である.

Written on February 9, 2017.
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Beiser, The genesis of Neo-Kantianism, Ch. 9.3--9.4

Frederick C. Beiser, The Genesis of Neo-Kantianism 1796–1880 (Oxford: Oxford University Press, 2014), Ch. 9.3–9.4

3. ある古典の起源と目的

ランゲの『唯物論史』は,ロッツェの『ミクロコスモス』やトレンデレンブルクの『論理学探究』と並ぶ,19世紀後半の哲学史における最重要著作であり,タイトルにある唯物論の歴史のみならず,世界観をも扱っている.また,歴史に意味付けするために哲学をし,哲学に具体的な姿を与えるために歴史をしているという点でも注目される.その主張は,唯物論は価値ある研究プログラムではあるが,形而上学としては維持できないというものであった.これは右派にも左派にも訴えかけるところがあり,ランゲの存命中に第2版,最終的には第10版(1974年)まで数えた.また,『唯物論史』の第二版(1873–75年)は初版(1866年)と比べて,唯物論論争に関する論考を加えて分量が倍になっているのみならず,初版にあった部分もほぼ書き直され,対象読者層も一般向けから学者向けになるなど,ほぼ別の本と言ってよい.ランゲがこのテーマに関わりだしたのは1857年,ボン大学の学生から唯物論の歴史について講義してほしいという要望を受けてからで,それ以来断続的に原稿を書き溜め,1864年1月に初版を出版すべく出版社と連絡を取った.また,胃癌を患い,余命の長くないことを知ったランゲは,1874年秋に第二版に向けて改訂作業を急ぎ,なんとかその完成を見ることができた.ランゲは1875年11月21日,47歳で死去した.

さて,なぜランゲは『唯物論史』を書いたのだろうか?本人の述べるところでは,唯物論論争,とくに科学と信仰の衝突が主要な動機であるようだ.また,この問題を論ずるときには,カントが決定的な役割を果たすが,カントを無批判に受け入れてもいけないとランゲは警告する.ランゲの目指す「単純な真理」とは理性と信仰の調停を目指すカントの戦略にある.真のカントとは,正統派のカント主義と実証主義的なカント主義のあいだにあり,科学の問題も宗教の問題もどちらも軽視してはならない.さらに,カントの戦略は,われわれの宗教と科学どちらをも救いうるため,唯物論と思弁的観念論の中間を行くものでもある.『唯物論史』が後の世代に訴えかけたのは,その公式の動機である科学と宗教の衝突を調停することではなく,むしろ,唯物論を受け入れることなく科学を承認すること,形而上学や神秘主義に陥ることなく信仰を担保することであった.こうした点で,ランゲの『唯物論史』は,ラインホルトの『カント哲学についての書簡』と似たところがあるし,ランゲは第二版の序文で,自分がカント哲学の復興のために果たした役割に満足していると述べている.

ランゲの『唯物論史』には社会的・政治的な目的があった,とする向きもある.ランゲは革命を志向していたと主張する者もいれば,ランゲが述べているのは革命に対する警戒であると主張する者もいる.しかしどちらの解釈も問題がある.まず,ランゲがはじめて社会主義的なアジェンダを展開するのは1863年になってからであり,この時までに『唯物論史』初版の執筆はおおかた終わっていた.また,貧困という社会問題に立ち向かうには,唯物論の歴史を書くことはあまりにも迂遠であろう(実際,ランゲは別途『労働者問題』や『社会問題についてのミルの見解』を書いている).

しかし,だからと言って『唯物論史』に社会的・政治的な次元が含まれないということにはならない.1848年革命の当時,唯物論者は左派,観念論者は右派と,明確な政治的スタンスがあった.ランゲ自身は,唯物論者は進歩的であるとは認めつつもあまりにもエゴイスティックであり,また観念論者は理念のための犠牲や愛という優れた側面を持ってはいるが,その形而上学も方法論も受け入れることはできないと考えた.両者のイイトコドリをしようとしたのが『唯物論史』であると言える.また,ランゲはマルクスのように革命の歴史的必然性を信じてはいなかったが,資本主義に由来するさまざまな社会問題を解決するために,根本的な社会的・政治的・経済的変化が必要であると考えていたことは確かである.だがそれは革命のような流血を伴う極端な手段ではなく,注意深い,段階的な改革によって達成されるべきであり,そのためには人々の精神的成熟が必要であるとランゲは考えていた.だから,ランゲは「革命のおそれ」から『唯物論史』を書いたという方が正確だろう.何よりも人々のために道徳や美的・文化的理念が守られなければならない.このような態度はドイツの人文主義に沿う.

4. 隠れた唯物論者

ランゲの『唯物論史』はまずもって唯物論批判として登場し,評価された.しかし『唯物論史』はまた唯物論擁護の本でもあり,実際,ランゲは世界の科学的説明という唯物論の基本プログラムを共有していたし,その基本線である経験主義,唯名論,機械論の立場を展開しようともしている.

ランゲが唯物論を擁護するのは,ひとつには,それが権威や宗教的迷信からの解放をもたらしてくれるからである.唯物論者は,迷信からくる恐れが宗教を支えていると判断し,自然科学によって迷信を打破し,宗教と打ち倒そうと試みた.ランゲは,宗教それ自身については触れないが,迷信を打ち破ることについては唯物論者を支持したのである.こうしたプログラムのモデルは,アルノルトの『非党派的教会・異端史』(1729年)であった.アルノルトは,真のキリスト者とは異端であり,彼らを迫害から守らねばならないと訴えたが,ランゲは同じことが唯物論者にも言えると考えたのである.

『唯物論史』の第一編は,紀元前5世紀のデモクリトスから18世紀のラ・メトリとホルバッハに至るまでの歴史である.その基調は,哲学が洗練されればされるほどに,それは唯物論に近づくというものだ.ランゲは語る.唯物論の歴史をたどることはきわめて重要である.というのは,現代の唯物論者は歴史を知らず,自分たちの見解が自然科学から生まれたものだと思い込んでいる.反唯物論者も歴史を知らず,唯物論が哲学であることを認めない.どちらにとっても,まず唯物論の歴史を知ることが必要である.そうすれば,唯物論が長い歴史を持つ哲学の一形態であることが分かるだろう.このようなランゲの見解は,「唯物論は哲学とともに古く,しかしそれより古くはない」という,『唯物論史』の書き出しに認められる.

ランゲによれば,唯物論には生気論的なもの,汎神論的なもの,物活論的なものがあるが,もっとも純粋で首尾一貫しているのは原子論的な唯物論であり,その主唱者はデモクリトスである.ランゲはデモクリトスをきわめて高く評価する一方で,ソクラテス,プラトン,アリストテレスに対しては批判的である.ランゲはまず,デモクリトスの原子論的唯物論の利点を,目的論や擬人的要素を排除しているところにあると見る.ソクラテスはこれに対し,目的論的な見方を復活させてしまったが,これは退行に他ならない.また,ソクラテス=プラトンの伝統は普遍が存在することを認めるが,言葉の意味の根本とは精神にしか存在しないのだからこれはまったくの幻想である.だが,ソクラテスとプラトンの哲学がアリストテレスによって継承され,それが中世世界を支配してしまった.これは自然科学の発展にとってまことに不幸なことであった.

ランゲは近代における自然科学の再興をベーコンとデカルトに求める.彼らは唯物論には反対したものの,唯物論的傾向にしたがって自然科学を復活させた.だから,ランゲによれば,ベーコンは近代唯物論の父と呼ぶべきである.他方で,プラトン主義的な要素が科学の発展を駆動する一要因となったことも否定はできない.唯物論が科学の発展において果たした役割とは,有用性や宗教的意味にとらわれずに,自然現象それ自体を考察することを要請するような,確かな方法論に基づいた思考法を発展させたことである.

だがランゲは唯物論を称揚するばかりではなく,その難点をも指摘する.まず,唯物論では,いかにして自然法則にしたがって意識や思考が説明されるのかが明らかではない.物質的粒子の運動からいかにしてわれわれの感覚するさまざまな質が生まれるのだろうか?物質と意識のあいだの橋渡しが存在するとは思えない.また,唯物論は,道徳や宗教,形而上学の問題をあまりにも軽視し過ぎる.確かに自然界における目的や知性といった概念は擬人的だが,それでもそれらは「美的な正当化」を有するのである.ランゲが「美的な正当化」という言葉で何を指していたのかは不透明だが,それはわれわれによって作り出される「詩的な価値」を与えるものであるようだ.われわれが客観的真理とはまったく異なる理念や規範といった基準によって道徳や美を判断していることをランゲは主張している.

Written on February 3, 2017.
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Beiser, The genesis of Neo-Kantianism, Ch. 9.1--9.2

Frederick C. Beiser, The Genesis of Neo-Kantianism 1796–1880 (Oxford: Oxford University Press, 2014), Ch. 9.1–9.2

1. ランゲの遺産

われわれはクーノ・フィッシャー,エドゥアルト・ツェラー,ユルゲン・ボナ・マイヤー,オットー・リープマンと見てきた.1860年代の新カント派運動で見ておくべき最後の人物はフリードリヒ・アルバート・ランゲ(1828–1875)である.彼の『唯物論史』(初版1866年)は他の4人を圧倒する影響力を及ぼした.

ランゲの立場は複雑である.彼はひとまずカントの生理学的・心理学的解釈の伝統に乗ることは確かだが,それがすべてではない.というのも,ランゲは,カントによる叡智界と現象界の区別を理念と現実性,規範と事実,価値と存在の二分法へと改鋳したからだ.こうした点でランゲはのちの西南学派の祖とも言えるし,事実弟子のコーエンはその意義を強調しているが,ランゲとコーエンのあいだには重要な違いがある.ランゲの唯名論と経験論,カントの心理学的解釈,宗教の美学的基礎,プラトン主義批判などはコーエンの哲学とは明らかに衝突するのだ.

他方,ランゲは新カント派社会主義の創始者と見られることがある.たしかにランゲの政治的見解は組合を重視し,歴史的必然性を批判するものであるが,彼は自身の政治的見解と新カント派としての哲学的見解を結びつけているわけではないし,またカント的な道徳原理に訴えることもしていない.『労働者問題』(第4版1879年)や『社会問題についてのミルの見解』(1866年)ではむしろ,政治経済や倫理の領域でカントの道徳哲学を目安とすることを拒否し,スミスの共感論を採用しているのである.

以下では『唯物論史』をメインに,ランゲの思考の歩みをたどっていく.

2. 初期ランゲと野生の哲学

ランゲは1828年9月28日,ゾーリンゲン近くのヴァルトで生まれた.祖父は荷馬車屋だったが父親ヨハン・ペーターは牧師であり,神学教授となってチューリヒでは悪名高きシュトラウスの後任となった(1841年).ランゲは当地のギムナジウムに通い,そこではじめて哲学に触れた.ヘーゲルの『精神現象学』である.1847年に大学に進んで神学と文献学を学び,ヘルバルト哲学を学んだ.それが後にカント哲学へと転向することになる.

チューリヒの大学で1年学んだ後,ランゲはボンに移り,1848年から1851年までそこで学んだ.彼は教員になるべく「パンのための学問」として文献学を修め,さらに数学,物理学,古典古代史,そして英語を学んだ.ブランディスによる哲学史の講義にも出席はしたが,最初から厳格な方法に基づくよりは,自身の「野生の哲学」をある程度発展させておきたいと述べている.「野生の哲学」の内容は,ランゲの旧友にして牧師であったカンブリへの書簡(1851年)からうかがえる.野生の哲学はむろん未熟なものであるが,その機軸は歴史主義,相対主義,自然主義であり,これらの要素は後の時代においても保持されることとなった.

その後ランゲは,教員資格を取得してギムナジウムで教えはじめたものの,ふたたび学究の道へと戻り,1855年にヘルバルトの心理学に関する論文でボン大学から大学教授資格を取得した.1858年まで同大学で私講師として心理学,道徳統計,論理学,教育学を教えたが,この時代にランゲははじめて哲学に集中的に取り組んだ.その動機は,教育学の基礎であるヘルバルトの心理学は破綻しており,それゆえカントの批判哲学を研究しなければならないと考えたことにあった.1858年9月27日付けのカンブリへの手紙には,「私は形而上学はすべて一種の狂気であって,その正当化は美的あるい主観的にしかなされないと思います.私の論理学は確率計算であり,倫理学は道徳統計であり,心理学は完全に生理学に基づいています」という一文があり,彼の実証主義的な傾向と唯物論への接近をよく示している.しかし,それがランゲのすべてではない.というのは,ランゲは同時に詩も等しく重視し,それが「理念の観点」であると述べるからである.ランゲによれば,人間には合理的な側面も詩的な側面もあるのである.

同じ手紙でランゲは,どのようにカントに接近したかを述べており,それによればランゲはカントの形而上学批判を受け入れ,それをヘーゲルなどの観念論に対する解毒剤とみなしているようだ.ランゲはカントの実践哲学については否定的であるが,実践理性によって道徳や宗教を正当化する試み自体は出発点として共有する.

1855年からボンでランゲが論理学について行った講義は,後にコーエンの編集によって『論理学研究』として死後出版された(1877年).この講義でのランゲの関心は,数学と同等に確実で,かつ認識論的な問題からは独立な形式論理学の可能性を示すことにあった.ここでいう論理学はアリストテレスの三段論法的なもので,文法や形而上学の問題からは切り離されている.ランゲによれば,論理学が文法や形而上学とは関わりなく妥当なのは,それが直観性を有しているからであり,直観性の基礎はアプリオリな空間直観にある.われわれが推論するときには包含関係などの空間的な述語を用いており,そこではアプリオリな空間直観が基本的な役割を果たしているのだ.

ところでランゲは,カントの論理学についての見解とは二つの点で対立する.ひとつは,ランゲは,すべての必然的命題は総合的であり,それぞれの項はアプリオリな直観により結びつけられると考えたことである.カントは論理的真理と数学的真理のあいだに差異を認めていたが,ランゲはそのような違いを認めない.もうひとつは理性と感性の区別に関するもので,ランゲによれば,すべての直観は思惟を要し,すべての思惟は直観を要するという.

Written on February 2, 2017.
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Turner, Prussian Universities (1973), Ch. 6

Steven Turner, The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848. PhD. Dissertation, Princeton University, 1973, Ch. 6.

第6章 研究義務.制度的変遷

研究義務の定着には,大学の制度的な改革という要素と,知的・イデオロギー的な潮流という要素がともに必要だった.

コーポラティズムとしての大学の凋落

第3章ではコーポラティズムとしての大学の性格を確認した.しかし,1790年代から,プロイセン政府の政策によって,このような性格は変化を余儀無くされる,1794年,プロイセンは「一般国法 Allgemeines Landrecht」を制定するが,その中には,公務員(ひいては大学教授)の身分保障による学問の自由の確保,辞職の自由の保障,そして1810年にはフリードリヒ・ヴィルヘルム三世により,学生が国外の大学へと転学する自由が認められた.これらは,大学のあいだでの競争を引き起こし,大学の中では政治的・宗教的にセンシティブな問題が扱われるようになり,さらに教授のキャリア形成にも影響を与えた.三月前期には,教授が他の大学からの招聘を受けると,それを材料にして待遇改善の交渉をしたり,教授が大学間で移動するのも普通のことになった.

こうした変化は,大学のコーポラティズムや教授たちの連帯感を解体する方向へと作用した.大学教授たちが持っていた抵抗権,免税特権,衣装,複数の教授職などのさまざまな特権は廃止された.さらに,大学間での流動性が増し,また教授の出身階層が多様になるにつれ,教授陣の連帯も失われた,

この時期の重要な変化として,私講師の役割を挙げなければならない.それ以前から存在はしていたものの,1816年にベルリン大学で学則が改正されると,私講師は数の上でも,また学部における比率の上でも存在感を大きく増した.私講師は教授資格試験に合格して教授資格を取得したが,通常その教授資格はある特定の領域に限られ,したがって学問の専門分化を促進した.また,教授資格の付与は学部の専権事項であった(後に政府が介入するようになるが).また,教授資格試験は,教授資格申請論文と口頭試問により行われたが,論文は独立した科学的探究でなければならず,それを書くには博士号取得から数年かかるのが通常であった.私講師の増大は,学問を志す人々の増大を示しており,フンボルト時代以降の大学が有していた名声や,知的な英雄としての私講師像がうかがえる.また,私講師が増えたことにより,大学以外に収入を持たず,私講師から昇任によって教授になる者が増大し,それと入れ替わるように,教授資格試験を経ずに教授になった人物は減少した.

哲学部の興隆

三月前期,哲学部ははじめて他の学部と対等の立場になり,後には優越するようになった.哲学部の成長は,学生数の増加や教授の給与の増大に示される.また,フィヒテやシェリングをはじめとする名立たる学者たちの名声や,哲学,文献学,歴史学はすべて哲学部のものであった.ベルリン大学哲学部の目標は,学則によれば,専門学部に進む学生のための基礎教育と,哲学部の学問それ自体の推進であったが,それらはどちらも同一の「純粋に学問的な」手段によって追求されるべきとされた.その結果,研究方法に力点が置かれ,研究成果がすべての教育の基礎とされた.

哲学部の成長にとって,ギムナジウムや実科学校などの中等教育の教員養成という任務はきわめて重要だった.18世紀のラテン語学校では教員は神学部出身であったが,19世紀に入るとフンボルト,ジューフェルン,ニコロヴィウスらの改革により,教員ポストの世俗化が図られた.アビトゥーアの導入(1812),古典語と数学を重視する新人文主義的なカリキュラムの導入(1816)の他,とりわけ教員採用試験の導入(1810)によって国家が中等教育に影響を及ぼすことが可能となった.続々とギムナジウムが新設され,既存のラテン語学校もギムナジウムに改編される中,教員養成の任には哲学部があたったのだった.

三月前期の哲学部の学生の構成を見ると,注目に値するのは,自然科学を学ぶ学生数がかなり増えていることである.これはベルリン大学の例から分かる.彼らは中等学校の教師を目指して大学に入学した.実際,ギムナジウムで数学や物理を教える教師の需要は増えていたのである.とはいえ,主な就職先だったのは,おそらくギムナジウムではなく,実科学校である.実科学校ではギリシア語を教育する義務はなく,(卒業生は大学には進めなかったが)数学と物理学に重点が置かれていた.

教員養成という任務により,大学はゼミナールを設置したが,そこで行なわれたのは純粋学問的な教育であり,その結果大学の研究志向は強まった.1783年にハレ大学の教授となった文献学者ヴォルフの例はそのことをよく示してくれる.彼は神学部でやはり文献学を教えていたニーマイヤーとそのゼミナールを厳しく批判し,文献学をひとつの専門分野として教授すべきことを主張した.そのためには学生は中等教育において専門的な教員からの教育を受ける必要があり[?],これは大学における文献学教育の改革と不可分に結びついているという.ヴォルフは何がしかの教育学的理論による文献学の教育ではなく,専門的な研究を通じての文献学の教育を志向した.1787年に彼がハレに設置した文献学ゼミナールでは,将来の牧師のための訓練と教師のための訓練を分離し,国家へ有能な教師供給すること,学生に対して研究方法と講義法の訓練を与えることが目標に掲げられ,特に教育学理論に惑わされずに文献学という学問の実質的な内容を強調しようとした.

ヴォルフのゼミナールや教育の方針は,フンボルトやジュフェルン,アルテンシュタイン,シュルツェに認められ,実質的な標準として採用された.将来の教員に対する教育は,厳格に学問的であるべきであり,教育理論は不要である(教育効果は学問的成果から勝手に従う)というのである.また,ベルリンでは,ヴォルフのゼミナールを模範にしてベックが文献学ゼミナールを開設した.これは大学の公的機関であり,その長たるベックは直接文部省に対して責任を負った.学生の正規メンバーは8名で選抜制であり,毎週の討議や隔週の研究発表など,少数精鋭の教育を受けた.ゼミナールのメンバーに選ばれることは名誉であり,またさまざまな特典が付与された.その後,ベックのゼミナールは,プロイセンにおける他の文献学ゼミナールの模範となった.歴史学や神学では,神学のゼミナールのモデルが採用されたが,独自の研究が重視された.

ゼミナールの発展は,批判という方法が教育され,学生に受け継がれるための制度的基盤となった.

プロイセンの大学における自然科学

文献学や歴史学における教育の変革は,他の学部にも,哲学部内部の他の分野——特に自然科学——にも波及した.

1795年から1820年までは,自然科学はドイツの大学改革においては特に重要な役割を果たしていなかった.これにはさまざまな要因があるが,もっとも重要なのは,二つの伝統が対立していたことである.ひとつは「教育的伝統」であり,この枠内で教えられる科学は初等的かつ実利的なもので,上級学部へと進む学生に向けられていた.もうひとつは「哲学的伝統」である.これはゲーテなどに見られる主観的でロマン主義的なアプローチに代表され,シェリング以降の自然哲学へと継承される.またそれは,実利的・経験的科学観を批判し,科学研究のための哲学的基礎を作り上げようとした.

「哲学的伝統」の擁護者として,オーケンを挙げておこう.彼は1809年の講演で,科学の真の価値は知性を鍛え,精神を覚醒させることにあるのであり,自然哲学は大学におけるすべての学問の基礎になると述べた.オーケンにとっても,独創性は重視されるべきであった.「哲学的伝統」がどれほど強力であったのかは判断しがたいが,しかし,自然哲学が無視できない勢力を誇っていたことは,1814年,ベルリン大学でフィヒテの後任にフリースではなくシュテフェンスが選ばれたことに現れている(着任したのは,シュテフェンスではなくゾルガーだったが,彼もまたシェリングの弟子だった).

だが自然哲学は,それまで大学で主流だった「教育的伝統」を置き換えることに成功しなかったように思われる.科学内部のこの対立が,科学に低い地位しか与えられなかったことを説明してくれる.実際,文献学者や歴史学者にとって,「教育的伝統」はパンのための学問であって,新しい学問のイデオロギーにそぐわないものだった.彼らはロマン主義的な学問に対してシンパシーを抱いていたが,新しい人文学とロマン主義のあいだには,それでは埋められない違いがあったのである.特に,ロマン主義的な学問には,独創性,研究方法,厳密さといった,新しい人文学に特有の要素が欠けていた.

1840年以降になると,科学者は学問のイデオロギーに沿った形で自然科学を擁護するようになる.自然科学もまた,精神(Geist)と教養(Bildung)を高めることができるというのである.また,自然科学の教育も,文献学と同じく,それ自身を目的としなければならないと考えられた(ヤコビは書簡で「何の役にも立たないことは学問の誉れです」と書き送っている).自然科学者は,自分たちの研究が学問のためだけではなく,個人の道徳的・倫理的発展にも資すると考えた.

文献学と同じように,自然科学は中等教育の教員養成の必要から大きな利益を受けた.1825年には,総合自然科学ゼミナール(Seminarium für die gesamten Naturwissenschaften)がボン大学に設置された.これは文献学のゼミナールとは異なり,教育的な目標に重きを置いており,また財政的な支援も限られていた.このことは,この時期における,文献学と自然科学の「学問的な」地位の違いを反映している.しかし,ボンのゼミナールは,ドイツの大学に研究施設が普及するための重要な一歩となった.

1830年以後,プロイセンの科学は大きな発展を遂げるが,これに対しては,人文学的な研究モデルが大きく寄与していたと考えられる.数学者のヤコビはベルリンでベックの文献学ゼミナールに参加した.その後ヤコビは,フランツ・ノイマンとともにケーニヒスベルクに数学・物理学ゼミナールを設置したが(1835/36),そこに持ち込まれたのは文献学ゼミナールの教育手法であった.フランツ・ノイマンもまた,ゼミナールにおける純粋に科学的かつ研究志向の方針を力説した.ケーニヒスベルクのゼミナールは多くの科学者を輩出し,その後,ドイツ中の大学で数学・物理学のゼミナールの標準的な形式となった.実験室の拡大とあわせて,新世代の科学者のあいだで研究義務が確立するための要因となったのである.

Written on January 22, 2017.
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Turner, Prussian Universities (1973), Ch. 5

Steven Turner, The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848. PhD. Dissertation, Princeton University, 1973, Ch. 5.

第5章 研究義務:批判とイデオロギー

三月前期のドイツの大学を特徴付けるのは研究義務である.これは,明示的には学問のイデオロギーという形で擁護され,大学内部における創造的な研究を称揚した.またそれは,暗黙には,研究志向の大学の機能の中に含まれている.大学は実際新しい知識や確かな方法を望み,それらを学生に教育することで研究と教育を大学という単一の機関で行うことを望んだのである.この章では,1850年ごろにこうした態度が確立するまでの時期を扱う.研究義務をめぐる変化は,主に人文学における方法と組織の変化に始まり,それが各分野に波及するという形を採った.

新しい学とその創始者たち

研究義務が生じたのは,人文学における革命のためであり,カント的な批判,古典文献学,歴史学,ドイツ語学,東洋文献学の興隆による.自然科学については,それは1830年代まで生じなかった.1800年以降のドイツの学問を象徴するのは(思弁哲学と)古典文献学であり,その成果が法学や史学などに持ち込まれたのだった.既にゲッティンゲンではハイネが手を染めていたが,ヴォルフは古典文献学をいっそう発展させ,言葉だけでなく政治状況や当時の文化などをも含む古代学 Altertumswissenschaft へと仕立てあげ,ハレからベルリンに移って弟子を育成した.その一人ベックによる『アテナイ人の財政』(1817)は,アテナイの文化を芸術面ではなく政治や経済の要素から扱った.また,ベックも多くの弟子を育成し,とくにミュラーはゲッティンゲンへと師の方法を持ち込んだ.ベックは,文献学と古代史を融合させ,その弟子は文献学者としてではありながら古代史の講座を席巻した.

古代学には二つの方向性があった.ベックの「歴史的・尚古的」古代学(Sachphilologie)と,ヘルマンの「文法的・批判的」古代学(Sprachphilologie)である,ヘルマンはライプツィヒで教えていたが,ベックに劣らぬ影響力を見せ,ベルリン以外の大学に多くの弟子を送り込んだ.二つの学派のあいだの論争は1826年に口火を切られたが,1840年ごろには収まった.弟子たちはあまり興味がなかったようである.

古典文献学はロマン主義者たちのドイツ文化や古い時代への興味を刺激した.また,より歴史的かつ文献的なアプローチへの移行は,ゲッティンゲンのベネケとグリム兄弟によって果たされることとなり,特にグリム兄弟は『ドイツ文法』(1819)によってゲルマン文献学を誕生させることとなった.また,ラッハマンは古典文献学の手法を用いて『ニーベルンゲンの歌』を校訂(1826)して注釈(1836)も与えたが,彼はグリム兄弟とは異なり弟子を育成してその後の古典文献学およびゲルマン文献学に大きな影響を与えた.

歴史学では,三月前期には政治的主張を含む愛国的・ロマン主義的な歴史記述も見られるが,ニーブールおよびランケによって批判的方法への転換が図られた.特にニーブールは,王政期のローマ史料を詳しく検討した『ローマ史』(1812)のように,古典文献学の影響を強く受けていた.ランケもまたライプツィヒのヘルマンの下で学び,文献学を修得した.彼の出世作『ラテンおよびゲルマン諸民族の歴史』(1824)には,「実際に起きたままに wie es eigentlich gewesen」という,客観的で価値自由な方法論的論考が含まれる.ランケはまた,文書館資料の重要性を知らしめた.ランケの影響力は絶大であり,19世紀の後半までドイツの史学界の重要な位置を占めた多くの中世学者を育成した.

法学もまた文献学による影響を受けた.サヴィニーとアイヒホルンによる歴史法学の創始である.

こうした,ベルリン,ライプツィヒを中心とする新しい学問は,18世紀の学問とは大きく異なるものだった.もちろん,18世紀との連続性を否定するわけでないが(ゲッティンゲンなど),それは広く普及することはなかった.また,ロマン主義の影響を無視するわけにはいかない.古代や中世への憧憬は,史学・法学・文学にある種の統一性をもたらしたのである.

学問 Wissenschaft と批判 Kritik

19世紀に学問の世界に生じた革命の意義が,批判的方法にあることは疑いない.批判という用語は,学問 Wissenschaft や陶冶 Bildung と同じく,アカデミックな世界の基本的範疇であった.それはまずカント哲学の用語として生まれ,1820年代に,史料の一貫性・信頼性・正当性の懐疑的評価という形で,文献学や歴史学に吸収されたのだった.批判的方法は,知的にも制度的にも学問を変革した.

文献学の方法は,本文批判に関するものであるが,とくに伝承されたテクストの校訂が重要視される.また,訂正も必要とされるが,校訂が(十分な量の手稿があれが)正確かつ厳密に実行できるのに対し,訂正には主観的・蓋然的要素が含まれる.

ホールによれば,文献学の発展は三つの段階に分けられる.ヴォルフ,ベッカー,ラッハマンである.ヴォルフは『ホメーロス序論』(1795)を著したが,イーリアスやオデュッセイアは単一の著者による作品ではなく,むしろいくつかの口承の集成だと考えられることを示した.彼の主張は特に目新しいものではなかったが,『序論』は批判的・文献学的方法の威力を知らしめ,また聖書やゲルマン叙事詩などへの適用可能性をも明らかにしてくれた.『序論』の影響を受けたベッカーは(ベルリン大学での講義を行わず)パリで過ごし,イタリアからフランスへ送られた史料の校訂に精力を注ぎ,写本の系統関係を解明する方法を洗練させた.ラッハマンは本文批判の方法を高めた.やはり『序論』を呼んで批判の方法を修得したラッハマンは,校訂と訂正とを融合させ,古代のテクストを完全に再現することを試みた.彼の『ルクレティウス』(1850)はヴォルフの『序論』と並ぶ古典文献学の傑作である.

古典文献学には大量の古代のテクストが必要であり,それゆえ,史料集の公刊プロジェクト(ベックのCorpus Inscriptionum Graecarum など)や,プロイセンによりローマに研究施設が設けられたりした.また,古典文献学と同様のことが歴史学にも生じた.

ドイツの学問における批判的方法とdisciplinary preemption

古典文献学や歴史学に関わっていた学者たちは,自分たちの方法が新しいものであることを自覚していた.もちろん彼らは,リチャード・ベントリーのような先駆者の存在を認めてはいたが,その方法を厳密化して批判的方法にまで高め,普及させたのは,ヴォルフをはじめとする古典文献学者たちなのである.これは,ある種の制約を伴っていた.つまり,厳密な批判的方法を導入したことにより,大量の文献へのアクセスや,大学でしか受けられないような歴史的訓練が必要とされることになり,他とは区別される専門家集団が形成されることになったのである.それは,問いや方法,基準,スタイルを共有するコンセンサス・グループであり,ダニエルズの言葉を借りれば disciplinary preemption であった.古典文献学は,1800年ごろに,disciplinary preemption へと転換したのである.

専門的な古典文献学者は,自分たちの分野に厳密な方法と基準を課した.専門家のあいだではまた,進歩に遅れることが極度に怖れられた.また,1810年ごろには,ヴォルフ,ニーブール,ヘルマンなどの古典文献学の創始者たちがその弟子によって批判されるようにもなった.古典文献学はダイナミックかつ競争的に行われるようになったのである.古典文献学のdisciplinary preemtpion への移行はまた,ロマン主義的な起源からの脱却をも意味し,その結果,ドイツ啓蒙の美的な新人文主義と,大学における批判的新人文主義のあいだに亀裂が生じたのである.また,専門家集団は,通俗的な学問には敵対的な態度を取った.このことは公衆の側にも気付かれており,文献学者はエゴイストで傲慢であると思われるようになった.

文献学には,大量の文献や,専門的な訓練が必要であり,それは大学でのみ可能だった.この要請に応じて,研究義務を伴う制度的な変化が生じた.

批判と独創性

批判的方法の登場は,学問観や,独創性とは何かについての考えも変革した.ニーブールも,ヴォルフも,ランケも,ベックも,サヴィニーも,グリム兄弟も,18世紀のものとは異なる学問観を持っていた.ひとつは,批判的方法を重視し,批判的な独創性をもっとも価値ある貢献をみなしたことであり,もうひとつは,学術的な独創性を,批判的方法の成果と同一視したことである.彼らにあっては,独創性とは,批判的方法の適用から生まれるものだったのである.そこでは,批判は新しい学問的理想となった.18世紀には,たしかに独創性は否定はされてはいなかったが,それは天才のものであったし,たまにしか訪れないものだった.これに対し,19世紀には,批判的方法を訓練により修得することで,天才でなくとも学術的に独創的な成果を恒常的に生み出せるようになったのだ.ベックの学問観はシェリング的である.すなわち,われわれの内的な自由が,それ自身の原理により,動的に,無限に,そして恒常的に展開していくことが学問なのである.ここでは天才や偶然のはたらく余地はない.こうした新しい学問観が,ドイツの大学における研究義務の認識論的前提条件を与えることとなった.

批判と学問イデオロギー(Wissenschaftsideologie)

18世紀,大学のあるべき姿として,学問イデオロギーが考案された.それは教育,市民生活,道徳に関するものであったが,もうひとつ,学問に関するものでもあった.たとえばフィヒテは,知識の伝達という役目は書籍の登場によって終わったとしつつも,大学には口頭での講義があり,そこで大学教師は学問が自分自身の内で生きていることを示さなければならないという.また,大学教師は,実際にできるかどうかはともかくとして,知識の拡大に務めなければならない,とも.フィヒテの見解をフンボルトも共有しており,大学は知識を「涵養する」すなわち拡大することが任務であると考えた.また,シェリングは,教育そのものが創造的な活動であると論じた.さらに,大学教師は自身の内なる学問を学生に教授しなければならず,そのため,大学教師は独創的な学者でありかつ教師でなければならないと論じた.三月前期に広まったのはこのような学問イデオロギーであった.

学問イデオロギーは,三月前期に,批判的方法によって独立に引き起こされた学問の変化を合理化し,強化したように見える.しかし,ことはそれほど単純ではない.むしろ,学問イデオロギーは,新しい批判的態度と衝突した.まず,学問イデオロギーの提唱者たちすべてが,研究業績を大学教授職への採用基準にするべきであると考えていたわけではない.また彼らは,文献学のゼミナールで行われていたような,研究と教育の緊密な連携を想像していたわけではない.研究と教育が統一されるべきだという明示的な文言が見えるのは,フンボルトの著述の中においてのみである.

さらに,学問イデオロギーの提唱者はおおむね思弁哲学者だったということに注意を払わなければならない.統一を志向する哲学者とは,分析的な文献学者は折り合いが悪かった.哲学者と文献学者の学部長席をめぐる争いは,1820年代にはすでに始まっていたが,その背景にはこのような事情があると考えられる.そこでは主にヘーゲル哲学が問題となっていたが,ヘーゲル学派の勢いが1830年代に衰えると,それと歩調を合わせるかのように専門分化が進行した.これを嘆く向きもあったが,ベックはむしろ歓迎していた.

1835年以後,ふたたび大学批判が噴出した.学問イデオロギーに基づく教育目標が達成されていないというのである.その原因は,大学が個別研究を重視しすぎていること,教育上の必要を無視していることにあるというのである.これに応じて,「新しい」学問イデオロギーが提唱された.それは,文化国家の理論や,反功利主義,学問の道徳的・動的概念に基づいて研究志向の大学を擁護しようとするものだった.教育の目標は,学生に,学術的独創性を喚起するところにあるとされた.ベックもこの問題に関わり,専門分化した研究を擁護するとともに,現在の教育には詳細かつ分析的な研究が必要であり,そのような研究を遂行することが「大学教師の真の召命」をなすと述べた.とはいえ,ベックは,知識の統一を無視して個別的な研究に没入していればよいと考えたわけではなく,小さな煉瓦にも建造物全体が反映されていると考えた.個人的な研究により,知識全体の統一に向かう感覚が得られるといのである.とはいえ,知識全体は個人では決して見渡すことはできず,また永遠に完成することもないのだが.

Written on January 22, 2017.
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