統計と前期量子論 (2) ——Darrigol 1991

O. Darrigol, “Statistics and Combinatorics in Early Quantum Theory, II: Early Symptoma of Indistinguishability and Holism,” Historical Studies in the Physical and Biological Sciences 21 (1991): 237–298.

前期量子論における統計熱力学の役割を検討した,いまや古典となっている論文の第二部.アインシュタインとプランクの不一致の源泉は,統計的手法に起因する特徴と,ミクロなモデルに存在する特徴とを区別することが難しかったところにある.熱力学的性質をミクロの力学から導出することは難しく,物理学者はしばしば統計的分布を単純に仮定するしかなかった.この困難にまつわる議論を,光量子をプランクの放射則に適用するという問題と,統計的エントロピーを示量的にするという問題を通じて検討する.ボルツマン的なアプローチを分子的,ギブス的なアプローチを全体論的と呼ぼう.当初,前者は区別できる粒子とのみ,後者は区別できる粒子とも区別できない粒子とも整合的であったが,前者であっても区別できない粒子を扱おうとする試みがなされ,ボース・アインシュタイン統計が誕生した.20年代半ばに,新しい量子論的対象,すなわち不可識別性をもつ粒子が導入され,そこからボース・アインシュタイン統計が導かれるようになった.粒子の不可識別性は,放射理論(プランクの放射則)と気体論(エントロピーの示量性)の二つの文脈から現れた.どちらも共通の統計的基盤を有しており,たがいにテクニックを融通することができた.これらは,ド・ブローイとシュレーディンガーのミクロなモデルを採用することで統合された.

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Written on September 14, 2017.
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統計と前期量子論 (1) ——Darrigol 1988

O. Darrigol, “Statistics and Combinatorics in Early Quantum Theory,” Historical Studies in the Physical and Biological Sciences 19 (1988): 17–80.

前期量子論の発展における統計熱力学の役割を検討した,いまや古典となっている論文の第一部.20世紀初頭には「標準的な」統計熱力学は存在しておらず,ミクロとマクロの関係はきわめて多様な仕方で理解されていた.このことが,ミクロなモデルの性質とミクロ世界に関する見解の相違につながった.この点に関しては,プランクの見解がもっとも奇妙である.プランクはボルツマンの「状態の確率」を「要素混沌」の測度とみなしたが,「要素混沌」はミクロなモデルから熱力学的でない振舞いを取り除くような概念であり,統計的なものではなかった.これは,彼の言う「ボルツマンの確率」というものが,実のところ確率ではなかった(組合せの数だった)という事情によって可能になった.アインシュタインはこの点を衝き,熱力学的確率を物理的定義によって定式化した.これにより,マクロな平衡状態におけるゆらぎを見ることも可能になった.これに続く黒体放射の研究によって,エネルギーの非連続性が徐々に明るみに引き出されたが,プランクはそれでも熱力学の絶対性を放棄しなかった.

統計的手法の多様性は,非連続性がどこに存在するかということにも見解の相違を生み出した.アインシュタインは積極的に,空間的に局在化した光量子を導入したが,プランクは可能な限り非連続性を避けようとした.アインシュタインによれば,ミクロな力学はマクロな状態を完全に決定し,逆に熱力学はミクロなモデルの構造と力学についての情報を提供する.このような態度により,アインシュタインは電磁気学が原子的スケールでは破れること,それゆえ必然的に自然界には非連続性が存在することを結論できた.他方でプランクにおいては,ミクロなモデルは部分的にしか知ることができないもので,要素混沌の仮説と組み合わせてのみ熱力学的法則を決めることができる.これはエントロピー則の統計性を避けるためであり,またそれゆえにこそ,電磁気学の基本的な構造に手を入れることなくエネルギー要素を導入することに成功したのだった.プランクもローレンツも,アインシュタインの光量子をどう扱うべきかに非常に悩み,マクスウェルの方程式を可能な限り保持すべきであるとの方針を堅持したが,最終的に1910年代には[?]アインシュタイン的な理解が優勢を占めるようになった.

これらの事情は,純粋な帰納でも純粋な演繹でもない,理論物理学の方法を表している.この場合では,理論家たちはミクロからマクロを導くために統計熱力学という「超理論」を用いている.これは純粋な帰納ではない.「マクロな経験」なるものが確証済みのマクロな理論の観点から報告されるのみならず,これに関わる推論方法が,ミクロ世界の構造を一意に決めるようなものではまったくないからだ.アインシュタインとプランクはそれぞれ革新と保守を代表しており,ミクロ世界の構造(とくにエネルギーの非連続性)について同意が取れたのは,ローレンツによって統計的手法の共通の土台が築かれてからだった.

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Written on September 14, 2017.
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もうひとりの物理学者:いくつかの観察——Jungnickel and McCormmach, The Second Physicist (2017)

C. Jungnickel and R. McCormmach, The Second Physicist: On the History of Theoretical Physics in Germany, Springer, c2017, Ch. 16.

19世紀のドイツ(語圏)における「理論物理学」の知的・制度的確立を扱ったJungnickelとMcCormmachの The Intellectual Mastery of Nature: Theoretical Physics from Ohm to Einstein, 2 vols. (Chicago: The University of Chicago Press, 1986) の改訂・縮約版の結論部に目を通す.これは,今回の改版にあたって書き下ろされた部分である.

19世紀の初頭,物理学は思弁的なドイツ自然哲学と距離を取りはじめた.そこで,数学でも実験物理学でもなかった理論物理学が,実のところ経験科学であることが示されなければならなかった.認識論にも造詣の深かったヘルムホルツは,理論物理学が数学を使用しているにもかかわらず経験科学であり,その点で実験物理学と同様であることを擁護したのだった.これは,研究上の分業が進んだことの帰結でもあった.19世紀中葉まで純粋な理論物理学者というのは存在しなかったが,やがて実験物理学と理論物理学の分業は進行し,大学における「もうひとりの物理学者」としてその存在が制度的にも認知されるようになる.これは部分的には実験室教育が導入され,実験物理学教授の負担が増大したためであり,数理物理学 mathematical physics の員外教授職がしばしば第二の物理学のポストとして創設された.19世紀末には,理論物理学の正教授が各大学に誕生しはじめた.

ヘルムホルツはまた,数学的知識と実験の技能を二つとも備えた「完全な物理学者」という理想をも抱いていた.大学がひとりの物理学者しか雇えないときには,このような物理学者がよいだろうというのだ.数学者では物理学を教えるには不適切であること,実験的技能だけでは物理学を教えるのには不十分であることをヘルムホルツは注意している.「完全な物理学者」という理想はその後も生き続けたが,1915年ごろには,理論と実験の双方をマスターすることは不可能であることが認識されていた.

理論物理学という分野が誕生したことは,一方ではフンボルト的な学問(Wissenschaft)の統一という理念に反するように見えたが,他方では理論物理学は,その性質上,物理学の統一を志向しているようでもあり,また,自然科学と数学との橋渡しをしているようにもみなされたため,ドイツの大学の理念には適していた.ドイツの大学で,理論物理学のポジションは重要であったし,また物理学者はキャリア形成の点からも生計の点からも多くの利益を得た.19世紀の終わりには,理論物理学の正教授は実験物理学の正教授を同程度の収入を得ていた.

なぜドイツの理論物理学は成功を収めたか.その解答は,研究自体の進展とともに,大学(研究が大学教授の職務となり,それが教育と結合したことで大量の研究者が供給された.大学は理論物理学の本拠ともなった),教育(転学の自由,ドイツの大学が「ドイツの科学者」と同一視され,同僚と連携を進めながら研究教育に携わり,さらにカントの影響下で哲学的でもあった),研究方法,文化的傾向に求められる.

この本では,理論物理学をいくらか人工的に実験物理学から切り離して議論したが,実験物理学は依然として重要である.理論と実験のあいだのバランスと,教育と研究のあいだのバランスから物理学は発展する.また,フランスおよび英国からの外国語文献の移入も見過ごせない.文化的には,理論物理学は「自然の知的征服」を意味する世界観とみなされた.

物理学は自然界の統一的な把握を目指すものである.しかし,「統一」ということには多くの意味があり,ヘルムホルツはそれを「宇宙の全体的な連関」として捉えていたが,プランクはより穏健に,力学と電気力学と熱力学の統一を目指した.理論物理学による統一には,さまざまな実験結果を統一的な観点にもとにもたらすという価値と,哲学および教育に由来する,知識の強固な基盤を求めるより一般的な文化的価値とがあった.それは「全体性」「統一」「完全性」といった理念を有していた.

連関あるいは統一を求めることは,個別的な研究のレベルでも動機として機能した.統一的な物理的世界像は,19世紀という時代の要請でもあったが,20世紀の物理学者にとってはそれはもはや動機にはならなかった.とはいえ,そのような法則の探究は,とりわけ諸力の統一という形では,止んだわけではない(大統一理論など).究極的な自然法則の発見は理論物理学の終焉を意味するのではないが,大きな目標・動機のひとつが失われ,それを別のもので代替することになるだろう.

分野としては,理論物理学はしばしば「応用数学」とみなされていた.こうした分類が研究内容に対して実質的な影響を及ぼすことはなかった.20世紀に入ると,理論物理学は独立した分野となっていた.しかし理論と実験とは相互に方法的に依存していたから,物理学の分業は意図的に限定されていた.理論家と実験家は同じ教育を受け,同じ学会に属し,同じ雑誌に出版した(理論家は,テクニカルなものは数学の雑誌に投稿する場合もあった).その後さまざまな理由により,理論物理学と実験物理学は最終的に分離し,そのことは大学におけるポジションに反映され,一人の物理学者が双方の領域をマスターすることは期待されなくなったが,物理学全体としては,理論と実験とが等しい役割を与えられていた.

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Written on September 9, 2017.
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もうひとりの物理学者:新版旧版比較——Jungnickel and McCormmach, The Second Physicist (2017)

C. Jungnickel and R. McCormmach, The Second Physicist: On the History of Theoretical Physics in Germany, Springer, c2017.

19世紀のドイツ(語圏)における「理論物理学」の知的・制度的確立を扱ったJungnickelとMcCormmachの The Intellectual Mastery of Nature: Theoretical Physics from Ohm to Einstein, 2 vols. (Chicago: The University of Chicago Press, 1986) の改訂・縮約版が本書である.本文の目次は以下の通りである.

  1. ドイツにおける理論物理学の特徴付けに向けて(1)
  2. 大学における物理学の確立(51)
  3. 1830年以前とその前後のドイツの物理学者たち(73)
  4. 新しい物理学の奨励:ゲッティンゲンでの地磁気研究(113)
  5. 大学での物理教育の改革:1830年代から1840年代のゼミナールと実験室の発展
  6. 1840年代の『ポッゲンドルフ年報』における物理学研究(137)
  7. 連関法則:1840年代のキャリア形成と理論(153)
  8. 数学者と物理学者(191)
  9. キルヒホッフ,クラウジウス,ヴェーバーと連関(205)
  10. 1870年前後の『年報』をはじめとする学術誌における物理学研究(241)
  11. 理論物理学のポジション(257)
  12. 理論物理学の方法(289)
  13. 理論物理学正教授職(315)
  14. 『年報』と『進歩』における物理学研究(335)
  15. 基礎と連関(349)
  16. 結語.いくつかの観察(397)

この他に序文,文献(抄),索引が付せられている.序文では,改訂版では新しい情報を付け加えることはせず,もっぱら既存の題材を整理することと,近年の研究成果の反映を行ったことが述べられている.

この改訂版の総ページ数はxxi+460頁(全16章)となっている.これは,旧版のxxvi + 350 + xviii + 435頁(全27章)に比べると,およそ6割ほどとなっており,内容が大幅に削除されていることを示唆する.目次を比較すると,旧版ではベルリン,ミュンヘン,ハイデルベルクなど,各都市ごとの動向について章立てされていたのが,この改訂版ではより一般的な見出しのもとにまとめられていることがわかる(たとえば理論物理学の教授職について論じた第13章など).また,旧版ではヴィーンの動向(とくにボルツマン)についても章立てして詳しく論じられていたのが,この改訂版では落とされているように見える.電気研究と力学研究については,理論物理学の方法(第12章)や基礎をめぐる探究(第15章)にまとめられているようである.

全体としては,リーダブルになるように,あまりにも詳細な情報は省略した上で,より大局的な視点を提供する方向にシフトしたという印象を受ける.実際,改訂版では新たに第1章と第16章が書き下ろされており,そこでは19世紀ドイツ(語圏)における理論物理学の特徴付けと,その成立に至る大きな流れを俯瞰することが目指されている.

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Written on September 5, 2017.
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ザックールの量子理想気体理論——Badino and Friedrich (2013)

M. Badino and B. Friedrich, “Putting the Quantum to Work: Otto Sackur’s Pioneering Exploits in the Quantum Theory of Gases”, in S. Katzir, C. Lehner, and J. Renn (eds.), Traditions and Transformations in the History of Quantum Physics (Berlin: Edition Open Access, 2013), Ch. 3.

放射と比熱の問題からその重要性を増した量子仮説が理想気体に適用されるのは,実はそれほど自明なプロセスではなかった.というのも,量子仮説はもともと周期的な系に適用されていたし,また実験的にも量子仮説を理想気体まで適用するモチベーションがなかったのである.だから,最初に理想気体に量子論を適用したのが,プランクやアインシュタインといった専門家ではなく,ザックール(Otto Sackur, 1880–1914)という周縁部の人物であり,その問題意識が化学平衡という周縁的な問題から来ていたのは驚くにあたらない.しかも,彼は量子論をあくまでも道具とみなし,あくまでも実用主義的な態度で臨んでいた.基礎的な問題への関心を持たなかったがゆえに,彼の理論にはいくらかルーズなところがあったが,それがかえって進歩をもたらすことにも貢献し,結局はプランクによる量子気体の理論へとつながったのだった.

ザックールのケーススタディから分かるのは,当時の量子物理学者のあいだで,量子仮説が意味していたところはさまざまに異なっていた,ということだ.それは例えば,アインシュタインは放射の理論から,ネルンストは熱定理の妥当性から,そしてザックールは物理化学的な背景から量子仮説にアプローチしたという,動機の違いによっている.ザックールは特に,古典的な統計的テクニックと,量子との連続性を強調していた.また,ザックールのスタイルは,プランク,アインシュタイン,ボーアらとのそれとは異なり,あくまでも具体的な問題に関する考察を軸としており,量子仮説を問題を解くための道具とみなしていた.

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Written on September 3, 2017.
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