ヴァン・ヴレックの感受率研究とクーン・ロス——Midwinter and Janssen 2013

Charles Midwinter and Michel Janssen, “Kuhn Losses Regained: Van Vleck from Spectra to Susceptibilities,” Research and Pedagogy: A History of Quantum Physics Through its Textbooks, ed. M. Badino and J. Navarro (Berlin: Edition Open Access, 2013), Ch. 7.

量子論形成期における最前線の研究と教科書のあいだの相互作用を調べた論集の一論考.アメリカの物理学者ヴァン・ヴレック(1899-1980)の前期量子論から量子力学への移行を検討する.1926年ごろまで,アメリカの物理学者は分光学に集中しており,ヴァン・ヴレックも前期量子論に関する長いNRC紀要報告「量子の原理と線スペクトル」(1926)を書いた.その後彼は電気・磁気感受率の研究に向かい,1927年から28年にかけて3本の論文を書いた.これは教科書『電気・磁気感受率の理論』(1932)のもとになった.感受率の理論は,彼にとっては,前期量子論を捨てて新しい量子力学へと向かうべき根拠となった.しかも量子力学は,前期量子論(モデルにより変化)がかつて置き換えてしまった感受率の古典論的表現(1/3)を元通りにすることで,感受率の理論において成功を収めたのだ.このことはヴァン・ヴレックは繰り返し強調している.アンダーソンの評価に見られるように,ヴァン・ヴレックの1932年の教科書は成功を収め,ヴァン・ヴレックは「現代磁気論の父」と呼ばれるようになった.

この過程は,クーン・ロス(古いパラダイムでの成功が新しいパラダイムには継承されないこと)の回復を表す.感受率の場合,古典論での成功が前期量子論には引き継がれなかったが,その後量子力学の導入により回復されたのである.散乱理論においても同様のクーン・ロスの回復が見られるが,クラマースの散乱理論で回復されるそのプロセスは,実験との関係においては感受率の理論の場合とは若干異なる.散乱理論ではただちに実験との整合性が失われたが,感受率の理論の場合では,信頼できる実験値が登場したのは量子力学登場以後になってであった.

クーンによれば,パラダイム・シフトの後で書かれた教科書はそれ以前の歴史とどう接続をつけたらいいのか分からないために歴史を歪めたり歴史を落としたりするが,ヴァン・ヴレックの1932年の教科書の場合は,歴史的経緯に十分な配慮がなされており,古典論・前期量子論を踏まえた上で量子力学的理論が展開される.これは,概念的変革にもかかわらず,数学的テクニックそのものはこれらの異なる理論のあいだで連続していたからである.まず,前期量子論と行列力学は,双方ともある意味では古典物理学の法則を堅持したと言える.ヴァン・ヴレックの場合,前期量子論で使われていた摂動論(これ自体は天体力学に由来する)や統計力学のテクニックを1932年になっても使用している.問題は異なっているが,数学的テクニックは連続している.これが可能なのは,ある意味で古典力学の数学的構造が生き残ったからだ.このような連続性のゆえに,ヴァン・ヴレックは1926年の紀要の内容を1932年の量子力学においても適用することができた(異なる複数のパラダイムにわたって共通の道具が使われていることに注意).歴史家が連続性を強調するか(細部を見る場合)非連続性を強調するか(鳥瞰する場合)は視点の違いによるのだが,ヴァン・ヴレックの事例はこの観点の違いをうまく例示する.

Written on June 26, 2018.
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量子論史における研究と教育——Badino and Navarro 2013

Massimiliano Badino and Jaume Navarro, “Pedagody and Research. Notes for a Historical Epistemology of Science Education,” Research and Pedagogy: A History of Quantum Physics Through its Textbooks, ed. M. Badino and J. Navarro (Berlin: Edition Open Access, 2013), Ch. 1.

量子論形成期における最前線の研究と教科書のあいだの相互作用を調べた論集の導入部.科学の古典的なイメージあるいはマートン主義によれば,知識は科学のエリート集団の中で作られ,それが一方的に教科書によって伝達される.このような描像はもちろん批判はされてきたものの,科学教育に対する体系的な歴史研究が始まったのはごく最近のことである.そこで鍵になるのは,教科書の役割を再検討することだ.

クーンの批判により,科学者は教育過程により作り上げられることが明るみに出された.教育により,問いの立て方,解答の仕方,手続きの妥当性が教え込まれるため,それは分野そのものの定義に関わる.しかしクーンは,教科書については,それは通常科学の産物であり,「死んだ」知識のリポジトリだと考えたため,かえって教科書に対する歴史的研究は遅れることとなった.とはいえ,教育が研究コミュニティの形成にとって重要であるというクーンの指摘は影響力が大きく,多くの科学史研究がこの路線の上になされることになった.他方で,科学的事実の生産という問題設定でも,1935年のフレックの本以来,科学史家・科学哲学者・科学社会学者は多くの研究をしてきた.そこでは,専門家の養成という観点から,教科書がさまざまな概念,方法,実験手続き,正統的解釈などを固めることが示された.

個別の社会的状況に制約された研究ばかりでなく,より一般的な認識論的関心が生まれた.それはフーコー『監獄の誕生:監視と処罰』による.彼は学校を,教師と生徒のヒエラルヒー,規範的判断,試験という三つの活動に分析した.彼の分析はクーンのものと似ていたため,ウォーリックとカイザーは,「フーコー的立場」を科学教育の一般的枠組みとして提案したのだった.しかしこれには,パラダイムを変革するような独創的な知識の生産(「弟子が師を殺す」)を捉えることができないなどの難点がある.また,クーンは物理科学を念頭に置いていたのに対し,フーコーはそれをむしろ避けていたように思われる.「フーコー的立場」は,フーコー自身の権力/知識の二分法のうち,知識によって補強される必要がある.このようにしてこそ,科学教育の分析において,ふたつの要請を満たすことができる.ひとつは,教科書が歴史記述のまっとうなツールになること.もうひとつは,安定的な状態ではなく,科学的なブレークスルーが起きるときに目を向けること.このときには,教科書は中立な真理のリポジトリではなくなり,研究活動との活発な相互作用が見えてくる(そして,通常科学と科学革命との境界は,さほど明確ではなくなるだろう).

教科書は量子革命のさまざまな歴史的状況を明らかにしてくれる.教科書は研究論文とは異なるタイムスケールを持っており,論文よりも広い範囲のトピックと読者層を持っている.まず,教科書の構成は,科学的知識の内的な動態を明らかにしてくれる.教科書は,とくに科学が混乱しているときには,伝承された知識を再編成してそれを新興の理論と統合しようとする.この反省的な過程には新しい仮説,概念,仮定のみならず,新しい形式的技術,手続き,方法などが関与しうる.それは生産的な思考を始めるのに重要である.言い換えれば,教科書は知識の体系性の特権的な事例であり,これはグローバル化の次元においても知識の伝達の一般的な枠組みであるようにおもわれる.

Written on March 28, 2018.
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ゾンマーフェルトの『原子構造とスペクトル線』——Eckert 2013

Michael Eckert, “Sommerfeld’s Atombau und Spektrallinien,” Research and Pedagogy: A History of Quantum Physics Through its Textbooks, ed. M. Badino and J. Navarro (Berlin: Edition Open Access, 2013), Ch. 6.

量子論形成期における最前線の研究と教科書のあいだの相互作用を調べた論集の一論考.ゾンマーフェルト『原子構造とスペクトル線』の初版(1919年)は一般向けの本として書かれたが,第四版が出版される(1924年)までに大幅に内容が増補され,また原子物理学者の便覧としての性格を備えるようになった.これは,『原子構造』という教科書それ自体が,研究状況に応じた変化を受けていることを示す.『原子構造』は多くの物理学者にとって量子論への導入としての役割を果たした.1929年には『波動力学補巻』を第2巻として付け加えて,30年代にはこの第2巻も内容が増補された.結果的に,『原子構造』は20年以上にもわたって改訂が続けられたが,これはゾンマーフェルトの弟子たちとの協働の成果でもあった.『原子構造』の執筆と改訂のプロセスは,それが研究と教育のツールであったことを示している.さらに,量子力学が成立した後になっても,『原子構造』は価値を失わず,量子物理学者の参照点として機能し続けた.

Written on March 7, 2018.
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ザックールの『熱化学・熱力学』——Badino 2013

Massimiliano Badino, “Dissolving the Boundaries between Research and Pedagody: Otto Sackur’s Lehrbuch der Thermochemie und Thermodynamik,” Research and Pedagogy: A History of Quantum Physics Through its Textbooks, ed. M. Badino and J. Navarro (Berlin: Edition Open Access, 2013), Ch. 4.

量子論形成期における最前線の研究と教科書のあいだの相互作用を調べた論集の一論考.オットー・ザックール(1880-1914)は物理化学のエキスパートで,ブレスラウ大学でも多くの講義を担当した.こうした成果をザックールは教科書『熱化学・熱力学』(初版1911年,二版1928年)にまとめた.実験技術と理論計算とを注意深く組み合わせるのが彼の流儀だった.ザックールの教科書は,それが確立された知識を記録するだけでなく,知識の緊張ある動態を反映するものでもあって,決して中立的ではないこと,教科書は研究手法を広めるための手段ともなり,新しい世代を形成するのに寄与することを教えてくれる.ザックールの場合,この裏側には,量子論をなんとかして古典論の枠内で扱おうとする努力があった.

ザックールの教科書は広く受け入れられた.内容的には,電気化学や毛管現象も含め,物理化学の重要なトピックを手広くカバーしている.熱力学の二つの法則に基礎を置きつつ,量子論の状況を踏まえ,物理化学は変化しつづけていることを強調した.多くの教科書では気体のモデルからはじめて液体・固体に進むが,量子論は最初は平衡位置のまわりで振動する共鳴子や分子といったモデルから出発したため,これを気体に適用するのは自明な問題ではなかった(周期系の手法を非周期系に持ち込まなければならない).ザックールの教科書では,この変化を反映し,固体から気体へと進むようになっている(アインシュタインの固体の量子論を扱い,その実験との一致を注意深く検討するなど).

1912年ごろ,気体の量子論は最先端の研究テーマだった.そしてそれについて書くことは,新しい出発点を用意するという意味で教育的でもあった.当時の物理化学あるいは熱力学の教科書は,古典論と量子論を完全に分離し,後者を別枠で扱うのが普通だった.これは量子仮説がいまだ新しいのに対して,古典的な気体論は半世紀にもわたる歴史を有していたからであったが,そればかりではなく,物体の熱的振舞いを説明するために量子論を導入する必要性についていまだに議論が続いていたからでもあった.ルイスの『物理化学の体系』(1921)などは,古典的な気体論と熱力学にもとづいた教科書であった.この教科書は,版を重ねるごとに量子論に割くスペースを大きくしたが,それでも量子論を古典論から隔離していることには変わりなかった.

ザックールの『熱化学・熱力学』は,当時の物理化学の本には珍しく,エントロピーの役割を強調し,その統計力学的な定義を論じた(たとえばネルンストの『熱化学』(1909)にはほとんどエントロピーは登場しない).ボルツマンの定義は気体論に限定されず,たとえばプランクの放射理論やアインシュタインの固体論を通じて量子論にも適用される.ザックールは,化学平衡,エントロピーの付加定数,量子仮説,ネルンストの熱定理の問題に関連する研究状況を教科書にまとめあげた.

Written on March 2, 2018.
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ドルーデの『光学』——Jordi 2013

Marta Jordi Taltavull, “Sorthing Things Out: Drude and the Foundations of Classical Optics,” Research and Pedagogy: A History of Quantum Physics Through its Textbooks, ed. M. Badino and J. Navarro (Berlin: Edition Open Access, 2013), Ch. 2.

量子論形成期における最前線の研究と教科書のあいだの相互作用を調べた論集の一論考.パウル・ドルーデ(1863-1906)の『光学』(Lehrbuch der Optik,初版1900年,二版1906年)の方法論や,その新しさ,そしてその影響を論ずる.ドルーデについてはすでに電磁気学の歴史の観点から行われたBuchwaldの研究があるが,ここでは『光学』をドルーデの光学の研究キャリアの中に位置付ける.

ドルーデはゲッティンゲン大学のフォークトのもとで学んだ(1887-1894).フォークトは電磁気学および光学に対する力学的アプローチを好んだが,ドルーデは現象論的な方法を採用し,マックスウェルの方程式系とそれに与える境界条件(このセットを彼は Erklärungssystem と呼んだ)を出発点として光学現象を論じた.ドルーデはエーテルを否定したわけではなく,理論的な要請からそれを受け入れているが,物質の構造について特殊な仮定を導入することには非常に慎重であった.このような実証主義的あるいは現象論的な傾向には,マッハの影響が見られる(1894年ライプツィヒ大学教授就任講演).

ところで,当時の電磁気学にとって重要な問題は,光の散乱であった.エーテルと物質の相互作用に起因すると思われるこの現象を,ドルーデは「イオン」を導入することによって説明した.これは完全に彼の方法論に適うわけではなかったが,『光学』の中でドルーデは現象を説明するためのもっとも簡潔かつ直観的なものであるとして正当化した.またイオンは光学とそれ以外の領域を結びつけるための道具としても機能した.

『光学』は電磁気学だけから出発して磁気光学まで含めて光学を展開したという点では初の教科書だった(放射の熱力学にも言及しているのが目を引く).その構成は,光学現象の数学的な記述から出発して,それぞれの項に物理的な解釈を与えるというもので,数学的な説明と物理的な説明は互いを映す鏡のようなものである.ここで現象の記述に含まれない物理学的な思弁を入れる余地はない(しかしイオンは例外である).また可能なかぎり単純な記述を与えるという目標をかかげたが,これは登場する物理的仮説の数を最低限に抑えるということだった.現象を紹介していく順番も,単純な数学的記述が可能なものから,磁気光学のような複雑なものへと進んでいく.このようにして,ドルーデはそれ以前の理論をすべて書き換えてしまい,新現象の説明を与えるばかりでなく,光学で問うべき新しい問題や新しいアプローチを与えた.第2版ではイオンの他に電子を採用して内容を修正した(これは金属電子論の影響である).

『光学』は出版直後から広く読まれ,モダンな本として高く評価された.一方で,量子論の形成にあたっては,『光学』(そしてフォークトの『磁気・電気光学』(1908))は「古典的な光学」の参照点として機能した.そしてその段階では,エーテルの本性や力学と電磁気学の統一の可能性は単純に消え去っていたし,電子仮説によって物質とエーテルを結びつけるのは当然視された.光学現象(散乱など)を観察する目的は物質の分析になった.書かれた時点では『光学』はモダンな本だったが,それは1910年代には(ボーアの原子模型との対比で,たとえばゾンマーフェルトによって)古典として参照されるようになった.

1892年から1900年まで,ドルーデは光学の諸概念を認識論的なレベルにおいても(正確さから単純さへ)存在論的なレベルにおいても(力学的なエーテルから電磁気学的なエーテルへ)再編成しようとした.これが,『光学』が登場当時にはモダンな本だった理由であり,そして後になって古典となった理由でもあった.ドルーデの理論を乗り越え,散乱の量子論的な解釈をはじめて提出したのはラーデンブルクであった(1921).

Written on February 28, 2018.
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