■ザックールの『熱化学・熱力学』——Badino 2013
Massimiliano Badino, “Dissolving the Boundaries between Research and Pedagody: Otto Sackur’s Lehrbuch der Thermochemie und Thermodynamik,” Research and Pedagogy: A History of Quantum Physics Through its Textbooks, ed. M. Badino and J. Navarro (Berlin: Edition Open Access, 2013), Ch. 4.
量子論形成期における最前線の研究と教科書のあいだの相互作用を調べた論集の一論考.オットー・ザックール(1880-1914)は物理化学のエキスパートで,ブレスラウ大学でも多くの講義を担当した.こうした成果をザックールは教科書『熱化学・熱力学』(初版1911年,二版1928年)にまとめた.実験技術と理論計算とを注意深く組み合わせるのが彼の流儀だった.ザックールの教科書は,それが確立された知識を記録するだけでなく,知識の緊張ある動態を反映するものでもあって,決して中立的ではないこと,教科書は研究手法を広めるための手段ともなり,新しい世代を形成するのに寄与することを教えてくれる.ザックールの場合,この裏側には,量子論をなんとかして古典論の枠内で扱おうとする努力があった.
ザックールの教科書は広く受け入れられた.内容的には,電気化学や毛管現象も含め,物理化学の重要なトピックを手広くカバーしている.熱力学の二つの法則に基礎を置きつつ,量子論の状況を踏まえ,物理化学は変化しつづけていることを強調した.多くの教科書では気体のモデルからはじめて液体・固体に進むが,量子論は最初は平衡位置のまわりで振動する共鳴子や分子といったモデルから出発したため,これを気体に適用するのは自明な問題ではなかった(周期系の手法を非周期系に持ち込まなければならない).ザックールの教科書では,この変化を反映し,固体から気体へと進むようになっている(アインシュタインの固体の量子論を扱い,その実験との一致を注意深く検討するなど).
1912年ごろ,気体の量子論は最先端の研究テーマだった.そしてそれについて書くことは,新しい出発点を用意するという意味で教育的でもあった.当時の物理化学あるいは熱力学の教科書は,古典論と量子論を完全に分離し,後者を別枠で扱うのが普通だった.これは量子仮説がいまだ新しいのに対して,古典的な気体論は半世紀にもわたる歴史を有していたからであったが,そればかりではなく,物体の熱的振舞いを説明するために量子論を導入する必要性についていまだに議論が続いていたからでもあった.ルイスの『物理化学の体系』(1921)などは,古典的な気体論と熱力学にもとづいた教科書であった.この教科書は,版を重ねるごとに量子論に割くスペースを大きくしたが,それでも量子論を古典論から隔離していることには変わりなかった.
ザックールの『熱化学・熱力学』は,当時の物理化学の本には珍しく,エントロピーの役割を強調し,その統計力学的な定義を論じた(たとえばネルンストの『熱化学』(1909)にはほとんどエントロピーは登場しない).ボルツマンの定義は気体論に限定されず,たとえばプランクの放射理論やアインシュタインの固体論を通じて量子論にも適用される.ザックールは,化学平衡,エントロピーの付加定数,量子仮説,ネルンストの熱定理の問題に関連する研究状況を教科書にまとめあげた.