<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?><feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" ><generator uri="https://jekyllrb.com/" version="3.7.4">Jekyll</generator><link href="http://hinaba.org/mikro-und-makro/feed.xml" rel="self" type="application/atom+xml" /><link href="http://hinaba.org/mikro-und-makro/" rel="alternate" type="text/html" /><updated>2019-04-11T01:15:39+00:00</updated><id>http://hinaba.org/mikro-und-makro/feed.xml</id><title type="html">Makro und Mikro</title><subtitle>etwas wissenschaftsgeschichtliches</subtitle><entry><title type="html">ボルツマンぜんぶ読む (2) 生涯と業績——Darrigol 2018</title><link href="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/04/11/01.html" rel="alternate" type="text/html" title="ボルツマンぜんぶ読む (2) 生涯と業績——Darrigol 2018" /><published>2019-04-11T00:00:00+00:00</published><updated>2019-04-11T00:00:00+00:00</updated><id>http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/04/11/01</id><content type="html" xml:base="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/04/11/01.html">&lt;p&gt;Olivier Darrigol, &lt;em&gt;Atoms, Mechanics, and Probability: Ludwig Boltzmann’s Statistico-Mechanical Writings—An Exegesis&lt;/em&gt; (Oxford: University Press, 2018), Ch. 1.&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;きわめて活発かつ多面的に活動したボルツマンの生涯と業績のまとめである．ボルツマンの最初の業績は1866年の，熱力学の力学的基礎に関するものであった．これはのちにクラウジウスと先取権に関する（小さな）あらそいを引き起こした．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1869年から73年のグラーツ時代．1870年と71年の2回，ベルリン大学のキルヒホッフとヘルムホルツを訪問してマックスウェルの電磁気学に関する議論と実験を行った．このときのヘルムホルツとの関係は後で効いてくることになる．1868年，前年に出版されていたマックスウェルの気体運動論の成果を一般化してマックスウェル=ボルツマン分布を導出した．ここで使われた分布の平衡条件に関するボルツマン恒等式は，のちのちまで重要な役割を果たすことになる．彼は確率を定義するときにおおむね滞留時間によるものを採用したが，この方法では厳密には無限個の分子が必要になってしまう（衝突にともなって分子間に速度の相関が生まれてしまうため）．そのため，ボルツマンは，今日でいうミクロカノニカル・アンサンブルによる導出も行った．この方法は気体に限られないきわめて大きな一般性を持っていたが，（いわゆる）エルゴード仮説の妥当性には疑問を付したため，その後は運動論的なアプローチに戻った．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1871年，ボルツマンは気体論に関して3本の論文を出版した．1本目は運動論によるものだった．しかし，2本目ではアンサンブル的な手法を用いてもおり，その中ではエルゴード系の小さな部分系がマックスウェル=ボルツマン分布を満たすことを示してもいる（これはのちのカノニカル分布にあたる）．また，3番目の論文では，エントロピーの運動論的構成を再び試みている．1868年から71年までの3年間の達成には目を見張るものがある．72年に行ったのは，マックスウェル=ボルツマン分布の一意性を運動論的なアプローチで示すことだった．いわゆるH定理であり，Hはエントロピーと一致する．ここで興味深いのは，H定理の一般化を行う際に，マクロな系のアンサンブルを導入し，そのアンサンブルの統計的な振舞いがマクロな系の時間的な振舞いと一致することを仮定する必要があることだ．そのため，ボルツマン仮説——物理的に可能な時間の範囲内では，アンサンブル中のほとんどの系の時間平均はほとんど同じである——を導入した．またボルツマン方程式から粘性係数や熱伝導係数を計算した．ただしマックスウェルと同様，5乗則を導入しないと積分が評価できなかったのだが．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1873年から76年にヴィーン大学数学教授を務めた後，ボルツマンは1876年から90年はグラーツ大学一般および実験物理学教授として，もっとも生産的かつ幸福な時期を過ごした．1877年のロシュミットの論文への応答が，第二法則の統計的解釈のきっかけとなった．ある気体のマクロ状態と整合的なミクロ状態は数多く存在するが，そのうちの大多数はより一様なマクロ状態へと至る傾向を持ち，系はより高い確率を持つ状態へと移行する（ボルツマン原理）．もちろん，これ以前にボルツマンが確率論的な性格をまったく認識していなかったわけではないが．また，離散化の手続きはこの論文がはじめてではないのだが，状態の確率を定義する上ではより本質的な役割を果たすようになった．しかしボルツマンにとっては，それは以前に得られていた結果の数学的意味の解釈でしかなかった．衝突数に関するロシュミットとの論争は続いたが，分子の速度どうしの相関は平均自由行程の長さを考えれば問題なくなるだろうと考えた．また，外場が存在する場合への拡張という課題については，英国のワトソンのハミルトン形式に基づいた気体論の成果を用いることで対応した．等分配則と多原子分子の比熱の問題についてもワトソンは注意していた．ボルツマンはワトソンのレビューの中で，この問題に対する解決を提案したが，マックスウェルはこれに反対した．スペクトルの観測などから，分子には多くの自由度があり，これは等分配則によって比熱に寄与すると考えられたからである．また，比熱は温度に依存するようにも見受けられた．これに対してボルツマンは，低温ではいくらかの自由度が「凍る」のではないかと提案し，また曖昧な形ながらも，このメカニズムと放射との関係を示唆した．他方でマックスウェルの逆5乗則もビリヤードボール・モデルも気体の輸送係数を説明しないことが明らかになった．ボルツマンは真実はこの中間にあると期待し，ビリヤードボール・モデルに関するボルツマン方程式を考えた．これは，気体の粘性に関する1880年から81年にかけての論文と，気体の拡散に関する82年の論文で展開された．しかし，輸送係数に関する予測を出すことには失敗した．&lt;/p&gt;

&lt;!-- オスカー・エーミール・マイヤーの本（1877）は，理論的にはあまり関心しないが，実験に関する記述はよいとの評価．--&gt;

&lt;p&gt;1879年，マックスウェルはアンサンブルの方法を展開した．新しい成果は特になかったものの，ボルツマンの方法よりはエレガントで理解しやすかった．ボルツマンは，以前の自分のアプローチと似ているこの論考を見て喜んだであろう．ボルツマンはマックスウェルの論考を詳しく紹介した．その中で「ほとんどすべての初期位相」に関して，アンサンブル平均が時間平均と等しいであろうことを述べているが，しかしこれはあくまでも確からしい前提であるのみだとも言う．1884年にはヘルムホルツの単循環系に関する論文を出版し，アンサンブルを用いた議論を展開した．ただしここでは，アンサンブルは純粋な力学系とみなされており，統計的な解釈を施される必要はない［？］．この論文は，ボルツマンにとって，認識論的な観点からも重要だった．外界との完全なアナロジーを提供できる物理理論は存在しないのである．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1885年から90年にかけては身内の不幸が続き，大学でも重責を担わされるなど，ボルツマンにとっては精神的な不調の続く重苦しい日々であった．テートからはH定理と等分配則に対する批判が，バーンサイドからは等分配則に対する批判が，クリースからは統計的な法則の認識に関する批判，ローレンツからはH定理の証明に関する批判があり，それぞれにボルツマンは応答した．とくにローレンツへの応答は多原子分子に関するH定理の証明の改良をもたらした．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1890年から1894年にはボルツマンはミュンヘン大学教授を務めた．マックスウェルの電磁気学の講義を行うほか，トムソンの等分配則に関する疑義に応答するなどした．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1894年から96年にはふたたびヴィーン大学で教えた．英国のブライアンとは生産的な議論を行い，逆衝突に訴えないH定理の証明方法を提案した．またキルヒホッフの講義録をめぐる議論や，英国における議論の中で，分子混沌の仮説やH定理の統計的解釈を明確化した．しかし，H曲線に関する定量的な議論は行っていないし，またボルツマン方程式がなぜ系の時間発展を記述できるのかも説明しなかった．他方でドイツからは批判が続いた．ツェルメロの，エントロピーが増大するプロセスと減少するプロセスは同じだけあるのではないかという批判に対しては，宇宙の初期状態は低いエントロピー状態にあって，宇宙の任意の部分はエントロピーが増える傾向にあると応答した．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1896年と98年にはボルツマンは『気体論講義』を出版した．これは気体運動論への最後の貢献となった．ここで彼は一部でアンサンブルの方法は導入するものの，ボルツマン仮説に対する自身がないために，その後の議論では使用しなかった．それよりは，分子混沌の仮説に基づいた衝突数の考察の方に自身があった．1898年から1906年には哲学的な考察へ向かい，物理理論の構成的な本性，その経験的世界とのアナロジー，多元論の擁護，経験的基礎づけの進化に関する考察を残した．&lt;/p&gt;</content><author><name></name></author><summary type="html">Olivier Darrigol, Atoms, Mechanics, and Probability: Ludwig Boltzmann’s Statistico-Mechanical Writings—An Exegesis (Oxford: University Press, 2018), Ch. 1.</summary></entry><entry><title type="html">ボルツマンぜんぶ読む (1)——Darrigol 2018</title><link href="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/04/05/01.html" rel="alternate" type="text/html" title="ボルツマンぜんぶ読む (1)——Darrigol 2018" /><published>2019-04-05T00:00:00+00:00</published><updated>2019-04-05T00:00:00+00:00</updated><id>http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/04/05/01</id><content type="html" xml:base="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/04/05/01.html">&lt;p&gt;Olivier Darrigol, &lt;em&gt;Atoms, Mechanics, and Probability: Ludwig Boltzmann’s Statistico-Mechanical Writings—An Exegesis&lt;/em&gt; (Oxford: University Press, 2018), Preface.&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;物理学者であればボルツマンの名を知らない者はないだろうし，科学史家や哲学者にとってもボルツマンはよく知られた対象であろう．ボルツマンの執筆した論文・著作をすべて詳細に検討した上でならば，「原子論の擁護者」などといった単純なイメージは維持できない．De Courtenay は博士論文（Nadine de Courtenay, Science et philosophie chez Ludwig Boltzmann: La liberté des images par les signes. Thèse de doctorat, Université de Paris 4, 1999）の中で，晩年のボルツマンの認識論的著作と物理学的な著作のあいだの共鳴関係を見出した．ボルツマンの認識論的な立場というのは像理論であり，そこで彼は厳格さ，明瞭さ，そして像の構成にあたっての自由度を強調したという．また，理論構築にあたっては，進化論的な性格を強調した．こうした認識論的背景のもとに，ボルツマンの残した統計力学的な著作をすべて時系列順に検討するのが本書である．&lt;/p&gt;</content><author><name></name></author><summary type="html">Olivier Darrigol, Atoms, Mechanics, and Probability: Ludwig Boltzmann’s Statistico-Mechanical Writings—An Exegesis (Oxford: University Press, 2018), Preface.</summary></entry><entry><title type="html">相対論ルネサンスにおける二つのアプローチ——Kaiser 1998</title><link href="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/03/06/01.html" rel="alternate" type="text/html" title="相対論ルネサンスにおける二つのアプローチ——Kaiser 1998" /><published>2019-03-06T00:00:00+00:00</published><updated>2019-03-06T00:00:00+00:00</updated><id>http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/03/06/01</id><content type="html" xml:base="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/03/06/01.html">&lt;p&gt;David Kaiser, “A \psi is just a \psi? Pedagogy, Practice, and the Reconstitution of General Relativity,” &lt;em&gt;Studies in History and Philosophy of Modern Physics&lt;/em&gt;, 29 (1998): 321–338.&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1960年代，ウィルが「相対性理論のルネサンス」と呼んだ事態がアメリカの物理学界に生じた．だが，そこで「一般相対論」の意味するところは，実のところかなり変化していた．それはベルクマンの教科書 &lt;em&gt;Introduction to the Theory of Relativity&lt;/em&gt; (1942) と，ミスナー・ソーン・ホイーラーの教科書 &lt;em&gt;Graviation&lt;/em&gt; (1973) を比較すれば明らかである．一般相対論には幾何学的アプローチ（アインシュタイン，ベルクマン）と場の理論にもとづくアプローチ（ファインマン，コールマン）があった．両者の差異は単なる概念や受容というよりも，物理学者が使う言葉と実践，すなわち計算テクニックの問題であった．二つのアプローチは存在論的にも，計算の手法としても，教育の観点からも，社会的なコミュニティ形成の視点からも，対照的だったのである．講義ノート，教科書，さらには大学院生に与えられた問題の変遷はこうした差異を際立たせるのに適している．ファインマンが場の理論によるアプローチを提唱したのは，1960年代の学生たちがそれに慣れているという教育的理由によるところが大であった．そしてそこでは，重力はもはや他の多くの種類の場のなかのひとつに過ぎない．ウォーリックはケンブリッジ大学におけるきわめてローカルな数学者コミュニティの形成を扱ったが，相対論ルネサンスの場合には，地理的により広域なコミュニティ形成が見られる．その際には，教科書や物理学者の移動が大きな役割を果たした．場の理論にもとづく相対論へのアプローチの発展は，学生の教育や新しい計算テクニックという点で，1942年から1975年にかけての一般相対論の再構成を示している．&lt;/p&gt;</content><author><name></name></author><summary type="html">David Kaiser, “A \psi is just a \psi? Pedagogy, Practice, and the Reconstitution of General Relativity,” Studies in History and Philosophy of Modern Physics, 29 (1998): 321–338.</summary></entry><entry><title type="html">若きスレーターと量子化学——Schweber 1990</title><link href="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/03/05/01.html" rel="alternate" type="text/html" title="若きスレーターと量子化学——Schweber 1990" /><published>2019-03-05T00:00:00+00:00</published><updated>2019-03-05T00:00:00+00:00</updated><id>http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/03/05/01</id><content type="html" xml:base="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/03/05/01.html">&lt;p&gt;S. S. Schweber, “The Young John Clarke Slater and the Development of Quantum Chemistry,” &lt;em&gt;Historical Studies in the Physical and Biological Sciences&lt;/em&gt;, 20 (1990): 339–406.&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;アメリカの物理学者スレーターの経歴と，彼の量子化学研究，およびその方法論についての論文．スレーターはバプテストの家系に育ち，また父親はロチェスター大学で英文学を教えていた．スレーター自身は物理学を専攻したが，そこでブリッジマンの薫陶を受けた．彼の言では，ブリッジマンは理論ではなく，一連のツールを教えたからこそ優れた教師だったという．スレーターはこのような態度を受け継いだ．またスレーターは，ケンブリッジのファウラーと，コペンハーゲンのボーアのもとにも滞在したが，海外での研究，とくにボーアの方法論にはあまり納得がいかなかった．スレーターは哲学ぎらいで，実験結果と誤差の範囲で一致する計算結果を弾き出すのが理論であるというスタンスだった．便利な計算手法を開発するという点では，たしかにスレーターはスレーター行列式などの手法を提案している．簡便な方法で計算できるならその方がよく，わざわざ群論（群論病 Gruppenpest と呼ばれるほど流行っていた）などを持ち出す必要はない，というのがスレーターの言い分だ．一方で彼は，そのような意味での理論によって統一をもたらすというモチーフも有していた．彼によれば，シュレーディンガーの波動力学（この解釈としてはアンサンブル解釈が採用される）は，ハイトラーとロンドンの共有結合の理論を足がかりとして，やがて化学を包摂するだろう．このように，スレーターは還元主義的な見方を採っていたが，他方では，社会や人間に関する事柄を物理学で扱うのは不適切だろうとも述べており，この点に関しては説明が一貫しないようにも思われる．スレーターは，アメリカで量子化学という分野が確立するのに大きな役割を果たした．それは知的にのみならず，制度的にも，化学科と物理学科の橋渡しを試みるなどの貢献を果たしたのである．&lt;/p&gt;

&lt;!--
1. The Young Slater
* Nature and nurture
* A foreign experience
* Cambridge, U.S.A.
2. Researches in physics
3. Slater's quantum chemistry
4. Style and philosophical outlook
5. American quantum chemistry
--&gt;</content><author><name></name></author><summary type="html">S. S. Schweber, “The Young John Clarke Slater and the Development of Quantum Chemistry,” Historical Studies in the Physical and Biological Sciences, 20 (1990): 339–406.</summary></entry><entry><title type="html">ガノーの教科書——Simon 2016</title><link href="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/26/01.html" rel="alternate" type="text/html" title="ガノーの教科書——Simon 2016" /><published>2019-02-26T00:00:00+00:00</published><updated>2019-02-26T00:00:00+00:00</updated><id>http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/26/01</id><content type="html" xml:base="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/26/01.html">&lt;p&gt;Josep Simon, &lt;em&gt;Communicating Physics: The Production, Circulation, and Appropriation of Ganot’s Textbooks in France &amp;amp; England 1851–1887&lt;/em&gt; (University of Pittsburgh Press, 2016), Conclusion.&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ガノー（Adolphe Ganot, 1804–1887）がフランスで出版した教科書『実験・応用物理学原論』（&lt;em&gt;Traité élèmentaire de physique expérimentale et appliquée&lt;/em&gt;, 1851）と，それに強い影響を受けたイギリスのアトキンソンの教科書が及ぼした影響を追うことを通じて，19世紀の物理学とは何なのかという問いにアプローチすると同時に，教科書という媒体の歴史学的重要性を主張する本．教科書の教育的・科学的・物質的特性が問題となる．その結論部に目を通した．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;教科書を検討した結果，19世紀の物理学の特徴として挙げられるのは，それが主として実験に基礎を置く，化学的・医学的な色彩が濃い教育的分野だったということである．これは，当時行われた教育制度の改革の結果であるが，まさにそれゆえに物理学が分野として確立したのだとも言える．また，ガノーの教科書は，歴史や実験の説明に大きな紙幅を割いているが，アトキンソンは数学的な説明を重視している．これは英仏のスタイルの違いとしてしばしば言われることとは逆である．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ガノーとアトキンソンの教科書の普及を考察する際に欠かせないのは，出版に関わる人々のはたらきである．印刷技術の向上や，国際的な販路の開拓により，ガノーは権威的な地位を占めるに至った．さらに，木版技術の向上は精緻な図版を掲載して機器の分析を主要なテーマとすることを可能にした．アトキンソンがガノーに大きく依拠していた（せざるを得なかった）ことも印刷技術に関わる制約から説明できる．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;19世紀の物理学は，教科書に着目すると，研究者だけでなく教科書の著者，出版社，印刷所，書店，製図工，彫版工，教師，生徒，普及家，雑誌編集者，読者を巻き込んだ，集団的な営みであることがわかる．このうち教師たちは，社会における物理学の存在感を増すために大きな役割を果たし，さらに著者に自分たちの経験をフィードバックした．読者層のうち多くを占めたのは化学や医学の学生だったが，研究者によっても使われた．&lt;/p&gt;

&lt;h1 id=&quot;関連記事&quot;&gt;関連記事&lt;/h1&gt;

&lt;ul&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2018/09/26/01.html&quot;&gt;教科書——Simon 2006&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2018/12/11/01.html&quot;&gt;教科書——Simon 2004&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;</content><author><name></name></author><summary type="html">Josep Simon, Communicating Physics: The Production, Circulation, and Appropriation of Ganot’s Textbooks in France &amp;amp; England 1851–1887 (University of Pittsburgh Press, 2016), Conclusion.</summary></entry><entry><title type="html">ファインマン・ダイアグラムの拡散 (9)——Kaiser 2005</title><link href="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/01.html" rel="alternate" type="text/html" title="ファインマン・ダイアグラムの拡散 (9)——Kaiser 2005" /><published>2019-02-15T00:00:00+00:00</published><updated>2019-02-15T00:00:00+00:00</updated><id>http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/01</id><content type="html" xml:base="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/01.html">&lt;p&gt;David Kaiser, &lt;em&gt;Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics&lt;/em&gt; (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 9.&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1950年代後半から1960年代前半にかけて，チューはファインマン・ダイアグラムを再解釈して強い相互作用へと適用した．「場の量子場の理論は，強い相互作用については放棄されるべきだ」とするチューのS行列の理論は，1960年代にはきわめて大きな影響力を及ぼした．「核民主主義」という彼の言葉が，当時の政治的状況を文字通りそのまま理論に反映させたものだとは言えない．物理学ではしばしば政治的な言い回しが見られるため，チューが自身のアプローチを「核民主主義」と呼んだのも驚くに値することではないし，彼の政治的見解そのものも，とくに左翼的であるとかリベラリズムであるとかいうわけでもない（むしろ1960年代後半のチューは，バークレーにあっては珍しく若干保守的である）．だが，チューが「核民主主義」と呼んだアプローチが生まれたという事実に対しては，やはりなぜその時，バークレーだったのか，という疑問が生じる．それは，当時のバークリーにおける政治的な背景がいくらかの影響を与えたものと見ることができる．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1949年秋，チューは若干25歳でカリフォルニア大学バークレー校に着任したが，早々にマッカーシズムと反共の嵐が吹き荒れることになった．とくに問題になったのは「忠誠宣誓」であり，1951年6月までにこれに署名しなかった理論物理学科の教員は全員が解雇されるか辞職した．チューもみずから辞職してイリノイ大学に移った．1950年代にチューは政治的活動に深く関与するようになり，アメリカ科学者連合（Federation of American Scientists）ではパスポート取得などの権利と平等を求めて闘争した．忠誠宣誓とパスポートをめぐる闘争の過程で彼は，権利と平等を守るためには適切なチャンネルが必要であるとの教訓を得た．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;忠誠宣誓をめぐる訴訟が非署名者の側の勝訴で終わると，1957年，チューはバークレーに呼び戻され，そこで大規模な院生のグループを率いた．彼は「秘密セミナー」を開いて院生たちと親しく接するとともに，強い相互作用に関する会議で院生たちにも発表させようと奮闘した．チューの「核民主主義」は，すべての粒子を平等にあつかうという意味で民主主義的であったばかりでなく，その探究の進め方も，場の量子論のような熟練を必要としないという意味で民主主義的であった．すべての粒子を平等に扱うに際して，「核民主主義」「平等な取り扱い」「平等な参加」といった当時の物理学の内部にはなかった用語を導入したのは，平等を求める政治的闘争が背後にあったことが考えられる．S行列の理論は，講義，サマースクール，講義ノート，そして教科書を通じて普及していった．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;だが，バークレーから離れたところでは事情が違った．たとえばゴールドバーガーのいたプリンストンではチューの熱狂は共有されず，むしろ場の量子論に基づいたアプローチで強い相互作用の問題を考察した．しかも彼らによれば，S行列の方法は場の理論を補完する立場にあるという．バークレーにはほとんどS行列しかなかったが，プリンストンではS行列も場の理論も共存し，院生たちは場の理論の訓練を受けたし，ブートストラップについて論ずるときにも素粒子と複合粒子の区別を維持した．その後，チューのS行列理論はほとんど「宗教的」であると批判されるようになっていく．さらに，S行列の理論が量子場などそもそも存在しないことを含意しているのか，あるいは便利な計算テクニックに過ぎないものなのか，についての見解も地域差があった．&lt;/p&gt;

&lt;h1 id=&quot;ファインマンダイアグラムの拡散関連記事&quot;&gt;「ファインマン・ダイアグラムの拡散」関連記事&lt;/h1&gt;

&lt;ul&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/24/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (1)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/29/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (2)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/29/02.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (3)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/31/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (4)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/04/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (5)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/07/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (6)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/08/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (7)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/14/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (8)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (9)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/02.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (10)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;</content><author><name></name></author><summary type="html">David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 9.</summary></entry><entry><title type="html">ファインマン・ダイアグラムの拡散 (10)——Kaiser 2005</title><link href="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/02.html" rel="alternate" type="text/html" title="ファインマン・ダイアグラムの拡散 (10)——Kaiser 2005" /><published>2019-02-15T00:00:00+00:00</published><updated>2019-02-15T00:00:00+00:00</updated><id>http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/02</id><content type="html" xml:base="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/02.html">&lt;p&gt;David Kaiser, &lt;em&gt;Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics&lt;/em&gt; (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 10.&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;結論部．おもな主張はすでに第1章で論じられているので，ここでは簡単にまとめておく．ファインマン・ダイアグラムとは別に，ポーキングホーンによる「デュアル・ダイアグラム」もあり，これはキルヒホッフの電気回路と似ていたためにより習得しやすいという利点があったが，結局あまり使われなかった．記憶法とみなされていたファインマン・ダイアグラムは，核乳剤法や泡箱による写真に認められる素粒子の崩壊過程と著しい類似性を示したため，「現実の」粒子と過程を表すものと受け止められるようになった．これがデュアル・ダイアグラムにはない，ファインマン・ダイアグラムの魅力だった．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;かつてピカリングは，いくら探してもクォークそのものを史料の中に見つけることはできはしないと述べたが，同様に，われわれはいくら探しても理論そのものを史料の中に見つけることはできない．だから，歴史分析のために理論構築と理論選択という枠組みを用いることは避けるべきだ．実際に見られるのは計算道具あるいは「ペーパー・ツール」である．論理実証主義的な理論観にも，反論理実証主義的な理論観にも，さらにはその後のモデルを中心とした科学哲学にもあてはまらない．第二次大戦後のアメリカの物理学に関する限り，科学哲学者が期待するような「理論」はないと言ってよい．クーンのパラダイム概念が多義的であることから批判され，そのことについてクーンは反省の弁を述べているが，とくに世界観としてのパラダイムに由来する科学の実践を特権化したことは，クーンの反省とは違う意味で，物理の現代史の描像をぼかしてしまった．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ファインマン・ダイアグラムは，現在ではもはや日常的な道具となっているが，このことによってその歴史性や，普及を助けたさまざまな教育的仕掛けが失われてしまった．だが，ファインマン・ダイアグラムもそれを使う物理学者も自然界に転がっているのではなく，教育的なプロセスの中でつくられたものなのである．&lt;/p&gt;

&lt;h1 id=&quot;ファインマンダイアグラムの拡散関連記事&quot;&gt;「ファインマン・ダイアグラムの拡散」関連記事&lt;/h1&gt;

&lt;ul&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/24/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (1)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/29/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (2)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/29/02.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (3)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/31/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (4)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/04/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (5)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/07/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (6)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/08/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (7)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/14/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (8)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (9)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/02.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (10)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;</content><author><name></name></author><summary type="html">David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 10.</summary></entry><entry><title type="html">ファインマン・ダイアグラムの拡散 (8)——Kaiser 2005</title><link href="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/14/01.html" rel="alternate" type="text/html" title="ファインマン・ダイアグラムの拡散 (8)——Kaiser 2005" /><published>2019-02-14T00:00:00+00:00</published><updated>2019-02-14T00:00:00+00:00</updated><id>http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/14/01</id><content type="html" xml:base="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/14/01.html">&lt;p&gt;David Kaiser, &lt;em&gt;Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics&lt;/em&gt; (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 8.&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;本章で示されるのは，その意味や用法におけるきわめて柔軟な可変性のゆえに，ファインマン・ダイアグラムは新しい領域へと適用されるようになったということだ（ラトゥールの「不変の可動物」と比較せよ）．それは強い相互作用が支配する素粒子物理学の領域で，きわめて生産的な発見法としての役割を果たした．具体的な相互作用に触れることなく，分散関係を計算することで粒子の散乱を考察する際に，素粒子物理学者はファインマン・ダイアグラムを改変した上で使った．交差対称性やマンデルスタム表現も，ダイアグラムをもとにした考察から提案された．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;チューにとって，ダイアグラムこそが「ブートストラップ」の役割を果たす新しいアイディアの源泉であり，このツールさえあれば，ひとまずは系統立った理論はなくてもすませられた．ポロロジーによる散乱振幅の計算手法を確立したチューは，ダイアグラムの再解釈，交差対称性，マンデルスタム表現に関する洞察を足がかりにして，粒子のあいだには「素粒子」や「複合粒子」といった区別などはないという「核民主主義」のアイディアに至った．興味深い（そしてダイソンのかつての意図からみれば皮肉な）ことに，チューは，場の量子論をS行列理論で置き換えるというプログラムを提唱し，ダイアグラムと場の量子論とのつながりを断とうとした．&lt;/p&gt;

&lt;h1 id=&quot;ファインマンダイアグラムの拡散関連記事&quot;&gt;「ファインマン・ダイアグラムの拡散」関連記事&lt;/h1&gt;

&lt;ul&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/24/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (1)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/29/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (2)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/29/02.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (3)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/31/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (4)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/04/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (5)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/07/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (6)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/08/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (7)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/14/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (8)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (9)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/02.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (10)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;</content><author><name></name></author><summary type="html">David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 8.</summary></entry><entry><title type="html">ファインマン・ダイアグラムの拡散 (7)——Kaiser 2005</title><link href="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/08/01.html" rel="alternate" type="text/html" title="ファインマン・ダイアグラムの拡散 (7)——Kaiser 2005" /><published>2019-02-08T00:00:00+00:00</published><updated>2019-02-08T00:00:00+00:00</updated><id>http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/08/01</id><content type="html" xml:base="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/08/01.html">&lt;p&gt;David Kaiser, &lt;em&gt;Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics&lt;/em&gt; (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 7.&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;紙や機械類の不足にもかかわらず，戦後の米国では教科書に対する需要が急激に増大し，それは理論物理学にとっても例外ではなかった．というよりもむしろ，物理学の学生は他の分野に比べて倍のペースで増加したのだから，いっそう需要はあった．しかし，ファインマン・ダイアグラムに関する教科書がすぐに出版されたわけではない．ダイソンは論文を書いただけで，教科書は出さなかった．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;初期の教科書としては，マンドルの『場の量子論入門』（1959）およびヤウフとローアリッヒの『光子と電子の理論』（1955）が挙げられる．これらに共通するのは，ひとつの理論ではなく，テクニックとしてファインマン・ダイアグラムを導入したことだ．進歩が早いQED業界においては，それこそが，とくに大学院生やポスドクによって，求められていたことでもあった．ところでわれわれはファインマン流とダイソン流のふたつのスタイルを見てきたが，この違いは教科書にも反映されている．シュウェーバー，ベーテ，ド・ホフマンの『メソンと場』（1955）はダイソンのアプローチを採用すると宣言している．しかしそれは完全ではなく，論述の流れを追っていくと，ある程度ファインマン流の解釈も採用されていることが分かる．マンドルの教科書も同様である．ビヨルケンとドレルの『相対論的量子力学』（1964）はもう一歩進めて，数式ではなくダイアグラムの方がより基本的であるとした．まず図から始めるのである．さらに，トホーフトとヴェルトマンによるCERNの報告書（1973）では，図のほうが根源的であり，他のすべてはそこから出てくる，とより強い主張がなされている．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;大学院生たちは，実践することでファインマン・ダイアグラムを学んだ．読むだけでは十分ではなく，実際にノートに図を書くことで習得したのだ．それは教室でも，教科書でも，サマースクールでもでもそうだった．ダイアグラムを教えるときには，とにかく図を描くことが重要であり，それを計算して評価することは後回しにされた．ファインマン・ダイアグラムのあまりもの拡散に，学生が摂動論とほかのものとを混同してしまうのではないかとの怖れもあったが，結局，ダイアグラムの普及は止まらなかった．それは，大学院生やポスドクのノートを見ることで明らかになる．彼らはダイアグラムを使用した教育を受けており，それを使うことはもはや内面化されていた．また，ファインマンやダイソンのもとの論文が参照されることもなくなった．つまり，理論家たちのあいだで，ファインマン・ダイアグラムはお馴染みの道具になったのである．&lt;/p&gt;

&lt;h1 id=&quot;ファインマンダイアグラムの拡散関連記事&quot;&gt;「ファインマン・ダイアグラムの拡散」関連記事&lt;/h1&gt;

&lt;ul&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/24/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (1)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/29/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (2)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/29/02.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (3)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/31/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (4)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/04/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (5)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/07/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (6)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/08/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (7)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/14/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (8)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (9)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/02.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (10)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;</content><author><name></name></author><summary type="html">David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 7.</summary></entry><entry><title type="html">ファインマン・ダイアグラムの拡散 (6)——Kaiser 2005</title><link href="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/07/01.html" rel="alternate" type="text/html" title="ファインマン・ダイアグラムの拡散 (6)——Kaiser 2005" /><published>2019-02-07T00:00:00+00:00</published><updated>2019-02-07T00:00:00+00:00</updated><id>http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/07/01</id><content type="html" xml:base="http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/07/01.html">&lt;p&gt;David Kaiser, &lt;em&gt;Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics&lt;/em&gt; (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 6.&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第1章で，大学ごとにファインマン・ダイアグラムの特徴が異なることを指摘しておいた．しかし，厳密にはたがいに異なっていても，われわれはそれらが同じファインマン・ダイアグラムであることを認識できる．これは，ヴィトゲンシュタインの言葉を借りれば，「家族的類似性」のためである．この場合，類似性をもたらすのは，誰から図の書き方を学んだか，何のために図を使ったか（どのような実験が念頭にあったか），というローカルな文脈である．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1948年から翌年にかけて，クロル（とカープラス）はIASでダイソンの同僚のポスドクとして勤務していたが，ダイソンが行っていた高次の放射補正の計算をチェックするという仕事を引き受けた．基本的にはQEDにおける高次の項を計算する仕事である．クロルらは49年10月になってようやく結果を投稿できたが，その方法はダイソンのそれを継承していた．ダイアグラムは摂動計算におけるミスを防ぐ「記憶術」の役割を果たし，高次の補正を入れた磁気モーメントの値を出すことを可能にした．クロルはその後コロンビア大学に移り，同地のポスドクたちにダイアグラムの方法を広めるとともに，そこでクッシュらを中心に行われていたラム・シフトに関する実験と協働した．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ロチェスター大学にいたマーシャクは，ダイアグラムの方法を直接ファインマンやコーネル大学の理論家から学んだ．ロチェスターとコーネルのあいだには非公式のミーティングを通じて密接なつながりがあった．マーシャクらの関心は原子核，とくにメソンにあり，バークリーなどの実験家たちとの情報交換もしながら，メソンと核子の相互作用ハミルトニアンを見出すことが課題だった．メソンの結合定数はきわめて大であるため，QEDにおける摂動法は使えなかったが，ファインマン・ダイアグラムを拡張して可能なモデルの定性的評価を行い，シンクロトロンを使用した実験結果と比較して見込みのあるものを選択した．このようなアプローチは，たとえばマシュー，サラム，さらにベーテやダイソンらの手法（くりこみ可能性の評価）とは異なる．また，マーシャクらのダイアグラムは，ダイソンらのものとは描き方も意味も異なっていた．そこには粒子と反粒子を区別するための矢印はなかった（必要なかった）し，またそれは実際の物理的プロセスの表現とみなされた．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ベーテによるファインマン・ダイアグラムの使用法は，多体系，とくに低エネルギー領域の核物理や固体物理への適用を目指した新しい近似計算であり，これはクロル（記憶術）とマーシャク（物理的描像）の中間と言える．ベーテ自身はファインマン流にダイアグラムを描き，サルピーターとともに粒子の束縛状態を考察した．そこでハシゴ図（ladder diagram）という新しい図法も考案された．彼らの成果はまだダイソンの影響が残っていたIASにいたゲルマンとロウの知るところとなった．ダイソンがファインマンの図法に「導出」を与えたのと同様に，ゲルマンとロウはベーテらの図法に「導出」を与えた．この結果が1951年秋に出版されるとさまざまな領域にダイアグラムが適用され，1960年代までには多体問題や固体物理もその適用範囲に含まれるようになった．ここで関わった物理学者たちのあいだに直接の交流（師弟関係あるいは先輩・後輩・友人関係）があることは言うまでもない．&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;クロル，マーシャク，ベーテらのアプローチはそれぞれ違うため，彼らはある意味で「学派」を形成したと言える．しかしこの学派の壁は絶対ではなく，一方が他方のものにきわめて近い手法を採用することもあった．学派のあいだの違いはむしろ，何をテーマにするか，何を教えるべきか，についての地域的な違いであった．つまり，コロンビアの実験家たちが何を扱っているか，ロチェスターの実験家たちが何を測っているのか，といった，地域ごとの実験テーマの違いが理論家たちに影響を与えたのである．欧州からアメリカに渡った物理学者として，ダイソンの報告は興味深い．彼によれば，アメリカにおける物理学教育の「哲学」とは，理論と実験の緊密な連携であり，これはダイソンがケンブリッジで受けた訓練とはまるで別物であった．マーシャクなどのアメリカの理論家たちは，ファインマン・ダイアグラムを用いてとにかく実験と比較できる理論値を計算することに全力を注ぎ，そのために発散項を単純に無視することもしばしばだった（対して英国では，ファインマン・ダイアグラムの形式的な側面に注目が集まった）．1950年代中盤には，IASのポスドクのあいだでは「場（フィールド）の理論屋と家（ハウス）の理論屋がいる」という冗談が流行っていた．その心は，実験屋におつきの「家の理論屋」など馬鹿馬鹿しいというものだったが，実際には，そのような区別はなかったのだった．&lt;/p&gt;

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  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/01/24/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (1)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
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  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/01.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (9)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
  &lt;li&gt;&lt;a href=&quot;http://hinaba.org/mikro-und-makro/2019/02/15/02.html&quot;&gt;ファインマン・ダイアグラムの拡散 (10)——Kaiser 2005&lt;/a&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;</content><author><name></name></author><summary type="html">David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 6.</summary></entry></feed>