ファインマン・ダイアグラムの拡散 (5)——Kaiser 2005

David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 5.

1940年代後半から1950年代にかけて,若い理論家たちはたがいに異なる目的のためにファインマン・ダイアグラムを活用した.そもそもファインマン・ダイアグラムは直観的な描像なのか,単なる図示なのか,単なる記憶術なのか——ダイアグラムが何を表現しているのかについて,ファインマン(時空間における素粒子の世界線)とダイソン(より抽象的な位相的グラフ)でさえもたがいに異なる見解を持っていた.また,当初は弱い相互作用について適用されていたファインマン・ダイアグラムは,必ずしも適切であるとは限らなかったのだが,強い相互作用に対しても適用されるようになった.この過程で,ダイソンの規則は次第に変更され,図法自体に大きな改変が加えらた.その結果,理論家の描くファインマン・ダイアグラムたちはパスティーシュの趣を呈するようになった.

ファインマンにとってのファインマン・ダイアグラムは,実際の物理的過程を表現するものであった.そもそもファインマンは,場を粒子および粒子のあいだの相互作用によって置き換えるというプログラム(これは経路積分の方法に結実する)から出発してダイアグラムの方法に至ったのだった.彼がダイアグラムに対して「証明」を与えたのはかなり後のことだったが,その直接性や明白さは,少なくとも彼自身にとってはダイアグラムの方法の有用性を示すのに十分だった.もう一つの源泉は,特殊相対論におけるミンコフスキーのダイアグラムであると思われる.ファインマンの言葉遣い(「世界線」「時空間」)にその名残が見受けられる.

ダイソンにとってのファインマン・ダイアグラムは,ややこしい計算を手なずけるための「紙の上のグラフ」であった.ファインマンの物理的描像に必ずしも反対というわけではなかったのだが,あくまでもその図の背後にあって支柱としての役割を支えていたのは摂動計算であり,図は数式を視覚化するものだった.実際,ダイソンの論の進め方を見ると,最初に長い計算を行い,最後の方になってようやくダイアグラムを「導出」するのである.彼のダイアグラムでは,「開いている」とか「閉じている」といった位相がきちんと意味をもった.

こうした違いがあるとはいっても,ファインマン・ダイアグラムの強力さは否定できなかった.そして,QEDにおける摂動計算だけでなく,メソンと核子の相互作用などの強い相互作用に対してもダイアグラムを適用しようという動きが広まった.実際,1949年から54年にかけて Physical Review に出版されたファインマン・ダイアグラムを使用している論文のうちの八割方は,当初とは異なる目的のためにダイアグラムを使用していた.もちろん,QEDでの計算とアナロジカルな方法によってうまくいくわけではなく,多くの発散が生じて困難にぶつかったのであるが,多くの若い理論家はくりこみ可能かどうかを気にすることなく,単純にそのような発散を無視して議論を進め,さらにファインマン・ダイアグラムの書き方も改変した.

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Written on February 4, 2019.
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ファインマン・ダイアグラムの拡散 (4)——Kaiser 2005

David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 4.

米国外へのファインマン・ダイアグラムの拡散を追跡する.英国では,おおむね米国と同じようにファインマン・ダイアグラムは拡散していった.つまり,ダイソンとの接触を通じてである.英国でIASと同様の役割を果たしたのはケンブリッジ大学のグループであり,バーミンガム大学がそれに続いた.大学院生やポスドクがすすんでファインマン・ダイアグラムを取り入れたが,それは基本的には,既にその技法に習熟していた者から直接習うことによってはじめて可能になったのだった.ダイソンが米国に帰る寸前にあやうくサラムが彼をつかまえて質問した話や,ハンガリー出身のValatinがバーミンガムにポスドクとして来た際の話にそれがよく現れている.1949年から54年にかけて,英国では26人がファインマン・ダイアグラムを用いた論文を52本出版した.

戦後の日本では,物質的な欠乏は避けられなかったものの,CIE図書室を通じて徐々に米国からの情報(すなわち_Physicsl Review_)が入るようになるとともに,湯川が Progress of Theoretical Physics を創刊し,また素粒子論グループが形成されて,その会合や『素粒子論研究』などで情報交換が活発になった.『素粒子論研究』はかなりくだけた情報誌といった趣であり,プレプリントのような記事のほかに,海外出張報告や,海外の物理学者からの書簡も掲載された.さらに,1949年末に海外渡航が認められるようになり,多くの物理学者が米国へ向かった.これらの様子を調べることで,ファインマン・ダイアグラムの日本への拡散が追跡できる.

朝永振一郎はくりこみ理論を作り上げ,すでにQEDに習熟していたが,朝永のグループでは,QEDにおける摂動計算はきわめて複雑で項を見落とす危険があることが認識されていた.これに対処するため,朝永グループでは木庭二郎と武田暁が独自の図式的な記法を編み出してPTPに投稿した(1948年10月4日受付)が,そこに届いたのがダイソンの論文(1948年10月6日受付)だった.ダイソンの論文で説明されていたダイアグラムを習得する努力が重ねられ,武田は1949年10月に真空偏極に関するファインマン・ダイアグラムを説明する記事をPTPに出版したが,その図には「開口部」があった.それは武田がダイソンの理論をハイゼンベルクの「基本長さ」と結びつけようとしたからだったが,その結果,ダイソンのものとは異なる図ができあがったのだった(ダイソンのグループであれば,仮想粒子を表すとする武田の意図とは異なり,光子と二つの実在する電子の相互作用を表すと解釈するだろう.仮想粒子であれば「開口部」などあってはならないからだ).また,摂動計算に長けた者の中には,単に例示のためにファインマン・ダイアグラムを用いる者もいた.日本ではじめてダイソン流のファインマン・ダイアグラムを用いたのは木下東一郎だった.彼はダイソンの論文を注意深く検討し,坂田のC中間子理論が発散の問題を解決できないこと(1950年3〜4月,PTP)や,中間子と光子がどう相互作用するか(同年5〜6月,PTP)を論じた.

日本へのファインマン・ダイアグラムの拡散は,朝永がIAS出張から帰国(1950年夏)して以降に本格化した.戦後の日本の大学システムの再編により,以前はかなり長い間同じ大学(の同じ指導教官)のもとに留まるのが一般的だったのに対し,大学のあいだの流動性が高まり,これによりファインマン・ダイアグラムは東京の素粒子論グループから日本中の大学に広まることになった.特に強力なグループが大阪市大(南部,木庭,早川,西島,山口)に形成され,そこから京都へと人と情報が流れた.この流れは文部省や企業からの奨学金によっても加速された.

戦後,冷戦がはじまったとき,ソ連の物理学者にとって障害となったのは,共産党によって米国からの情報を得にくくなり,とくに人的な接触が制限されたことである.ただし,兵器開発のために西側の文献を読むことは認められており,ファインマン・ダイアグラムに関する限りは,まず水素爆弾の開発計画の中で Physical Review のダイソン論文が読まれた.実際,水爆を爆発させるときに放射によって失われるエネルギーの量を計算するために,Berestetskii,Galanin,Ioffeらがダイソン論文を検討し,このうちGalaninが1951年には機密に触れる部分を避けながらも Zhurnal に論文を発表しはじめた.しかしながら,ダイアグラムの普及には直接的な接触が必要である.ここでランダウはファインマン・ダイアグラムの方法を認めなかったため,Galaninらは別にセミナーを開いて若手の物理学者にダイアグラムの方法を広めた(1951年10月).ここで学んだ物理学者がランダウを説得することに成功し,ランダウも1954年2月からファインマン・ダイアグラムを含んだ論文を書くようになったが,実際の計算は若手任せだったようだ.1953年に出版された教科書のおかげもあり,1954年終わりまでには徐々にファインマン・ダイアグラムを含んだ論文は増えていった.

しかし,やはりモスクワにファインマンやダイソンを招きたいという希望は依然としてあった.実際にソ連の物理学者は彼らを招待はしたものの,米国側の制止により失敗した(1955年4月).この潮目が変わったのはジュネーヴで開催された「平和のための原子」会議(1955年8月)からで,米国とソ連の相互交流が推進され,1956年5月にモスクワで開かれた会議には米国からファインマンとダイソンを含めた6名の物理学者が派遣された.さらに9月にはシアトルでの会議にソ連の物理学者が参加したが,このとき彼らはIASをも訪問して議論を交わした.その結果,ソ連ではファインマン・ダイアグラムを用いた論文が急速に増大した.その一方で,ソ連の物理学者の手になる独自のダイアグラムも発案され,これはファインマン・ダイアグラムと1957年までしばらくのあいだ併存した.ソ連におけるファインマン・ダイアグラムは摂動計算のために限られており,他の目的のために使用されたのはアメリカの物理学者からの情報が入ってからだった.

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Written on January 31, 2019.
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ファインマン・ダイアグラムの拡散 (3)——Kaiser 2005

David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 3.

ファインマン・ダイアグラムの拡散にもっとも貢献したのはダイソンである.しかし,出版された,ないし書かれたものだけでは十分ではなく,個人的な接触はつねに必要であった.

ここで効いてくるのは,戦後の米国におけるポスドクという制度である.既に戦前から,ロックフェラー財団などの援助により,科学研究の能力を涵養するためにポスドクという制度は存在していたが,1930年代前半にはかなり普及していた.これが戦後になると,政府予算によって大幅に拡大され,ポスドクになることは,物理学者であることの,ほとんど必要条件となっていく.ポスドクは数カ所を渡り歩くため,明文化される知識だけでなく,暗黙知や暗黙の技術までもが,ポスドクを通じて各地に伝えられるようになった.

ケンブリッジ大学で最初に数学を学び,その後物理学に転向したダイソンは,1947年9月,コモンウェルス・フェローシップからの資金を得てコーネル大学のベーテのもとにポスドクとしてやってきた.ベーテのラム・シフトに関する研究に関わるかたわら,ダイソンはファインマンと親交を結び,シュウィンガーとも話す機会を得た.両者の理論に習熟したダイソンは,実はそれらが等価であるという着想を得て論文を執筆したのだが,ここで,シュウィンガーもファインマンもまだ論文を公刊していなかったために,その基本的要素については自分で説明する必要があった.その結果,ダイソンの論文が(ファインマン自身よりも先に)ファインマン・ダイアグラムの使用法についての規則とハウツーを公に説明する最初の文献となった(1948年10月投稿,49年2月1日発行;ファインマン自身のダイアグラムに関する最初の論文は1949年9月発行).このような事情は,問題のダイアグラムが当初「ファインマン=ダイソン・ダイアグラム」と呼ばれていたという事実に反映されている.また,ダイソンによるファインマン・ダイアグラムの説明は,公刊された論文とは別に,プレプリントや講義ノートという形でも流布していた(ダイソンの第二論文).

このとき既に,1948年9月,ダイソンはベーテの推薦を得てプリンストン高等研究所(IAS)に移り,オッペンハイマーのもとでふたたびポスドクとなっていた.戦前のIASには功成り名を遂げた学者しかいなかったが,戦後,若手のポスドクを続々と迎え入れるようになっており,またオッペンハイマーが所長になると,物理のポスドクが集結するようになった.オッペンハイマーはIASを「知の宿 intellectual hotel」と呼び,若い物理学者が楽しんで研究できるように取り計らった.新任のポスドクが孤独を感じて「11月病」にかからないように,パイスなどがメンターの役割を果たした.

ダイソンが着任したときオッペンハイマーは出張中だったため,彼の執務室を大勢のポスドクが共用していた.これがポスドクどうしの交流を生んだ.ダイソンと同時期に着任した10人のポスドクはファインマン・ダイアグラムを習得するばかりかほとんど当然のものとみなし,IASから各地にもたらしたのだ.オッペンハイマーは当初ファインマン・ダイアグラムに批判的だったものの,ダイソンに説き伏せられた.コーネル大学ではファインマン,ダイソン,ベーテ,シュウェーバーらによって,ファインマン・ダイアグラムを用いた論文が多く書かれた.ただし,ハーヴァード大学にはシュウィンガーがいた.IASから来たカープラスの情報やダイソンの講義ノートなどで大学院生やポスドクのあいだでは知られてはいたものの,ファインマン・ダイアグラムはシュウィンガーの前では「邪教の図像 pagan picture」扱いであった.

1948年から54年までのあいだのファインマン・ダイアグラムの拡散には,論文や教科書といった文献だけでは不足であり,物理学者どうしの直接の対面が必要だった.オッペンハイマーの言を借りれば,「情報を送るために最善なのは,それを人の中に梱包することだ」ということだ.ファインマン・ダイアグラムとは文献では尽くされない道具であり,実践なのである.ここでラトゥールの「計算の中心 centers of calculation」が思い出されるが,それは適切ではない.ラトゥールは帝国主義的な支配を念頭に遠隔作用のメタファーを用いたが,ファインマン・ダイアグラムの場合,高等研究所での経験を積んだポスドクたちは自分たち自身で教育センターを作り出したのであり,これは遠隔作用よりも,場の理論の精神に則った,局所的な因果連鎖として理解されるべきである.

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Written on January 29, 2019.
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ファインマン・ダイアグラムの拡散 (2)——Kaiser 2005

David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 2.

1948年春に,ファインマンがファインマン・ダイアグラムを導入してから,54年までのあいだにいかにしてそれが物理学者のあいだに普及したかを検討する.注目すべきことに,ファインマン・ダイアグラムは,教科書などではなく,個人的な接触によって広まった.

量子電気力学(QED)では,仮想粒子を導入することで素粒子に関する過程を記述しようとしたが,その途中で,電子や光子の自己エネルギーが発散してしまったり,真空偏極により電子の有効電荷が発散してしまうという問題が生じた.摂動計算により(原理的な問題はともかくとして)この問題を回避することはできたものの,この計算は非常に複雑だった. この事態に対し,かつての量子力学のパイオニアたちは概念的な変革の可能性を感じていたが,米国の若い世代の物理学者たちは,戦時研究の影響もあり,具体的にどう計算するかという問題に取りかかることを選んだ.

1947年6月,シェルター・アイランド会議でラム・シフトが報告されると,ヴァイスコップフとシュウィンガーはそれが電子と仮想粒子の相互作用に起因するのではないかと示唆し,同年11月,後者は放射補正によってラム・シフトを説明することに成功した.このくりこみによって発散の困難は回避されるようになったものの,ひとつの問題が残った.計算が難しいままだったのだ.

ここでファインマン・ダイアグラムが,より簡便な計算法として登場する.ファインマンは1948年春,ポコノ・マナーでの会議でファインマン・ダイアグラムを提案した.このときは,しかし,大きな興味は引かなかった.ボーアやディラックといった大御所の反論に遭ったし,シュウィンガーの長い講演の方に聴衆の興味が向いていたからだ.その後も,ベーテやパウリが苦労したことから分かるように,ファインマン・ダイアグラムは習得困難な方法だった.系統的なルールが未だ存在しなかったためである.

とはいえ,ファインマン・ダイアグラムを含む論文の数は増えていった(平均すると2.2年ごとに倍).ファインマンが最初にダイアグラムを含む論文を Physical Review に出版する数ヶ月前から,ダイアグラムを使用する論文は続々と準備されていた.彼らはファインマンをはじめとする,すでにダイアグラムを知っている物理学者から個人的に教えてもらうことでそれに習熟した.その広がり方は,米国東海岸から始まって,中西部や西海岸へと,また海外へという具合であった.分野は理論物理学がほとんどで,さらに若手の物理学者が多数を占めた.特に最初の6年間は,個人的な接触を通じて広がったことがファインマン・ダイアグラムの特徴である.その中でとりわけ重要な役割を担ったのはプリンストン高等研究所,そしてフリーマン・ダイソンである.

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Written on January 29, 2019.
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ファインマン・ダイアグラムの拡散 (1)——Kaiser 2005

David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Preface and Ch. 1.

ファインマン・ダイアグラム,そして戦後の物理学史に関する名著とされる.その序文と第1章(これが本書のまとめでもある)を読んだ.

この本では,理論物理学者が何をしているのか,彼らの日常的な仕事が第二次大戦後にどう変わったのかを問題にする.とくに,理論的な道具立て,技術,実践に焦点を当てる.物理学史の研究は量子力学などの理論に焦点を当ててきたが,その結果判明したのは,理論というのは単一の統一された全体などではなく,異なる解釈がいつでもなされるということだ.また,理論物理学者はつねに計算 calculation をするが,計算手法はそれ単独で習得できるものではなく,それを使えるようにするための教育 pedagogy がともなう.この本では,ファインマン・ダイアグラムを題材とすることで,理論物理学者の訓練,さまざまな使用法,そして研究グループのあいだの差異を明らかにする.

ファインマン自身がどれほど大きな業績を残した理論物理学者であったか,また著名であったかは言うまでもない(チャレンジャー号の事故調査やアップル社のキャッチコピー“Think Different”の広告写真でも有名だ).さて Physics Today が彼を記念した特集号では,ファインマン・ダイアグラムが象徴として選ばれた.それは1940年代後半に量子電気力学における長たらしい計算を簡略化するための「簿記 bookkeeping」として登場したが,1960年代までには固体物理学や重力物理学でも使われるようになった.

従来の物理学史では,歴史分析の単位として「理論」を選んでいたが,20世紀中盤以降の物理学者にかぎって言えば,彼らの仕事の中心は計算であり,さまざまな道具立てを用いて異なる領域の問題に取り組んだりする.そのような計算のための道具立ては,ウルズラ・クラインに従えば「ペーパー・ツール」と呼べる.道具を使うためには,訓練あるいは実践が必要であり,ここで教育という要素が登場する.これには教室での講義や教科書だけでなく,(非公式な)個人的接触も含まれる.ただしこのときに,何が伝達されるのかは,人や場所により異なることに注意しなければならない.これにより,標準化される前のファインマン・ダイアグラムには,学派ごとのスタイルの違いが存在した.また,第二次大戦後のアメリカでは物理学の学生が急激に増えたが,ファインマン・ダイアグラムはこれに対してちょうどよい教育法だったことも見過ごせない.

ファインマン・ダイアグラムの「拡散 dispersion」には,地理的な広がりと,他分野への広がりという二つの意味がある.

どのようにファインマン・ダイアグラムは広まったのだろうか.もっとも重要なのは,戦後のアメリカの物理学界ではじめて一般的になったポスドクという制度であり,彼らが大学間を渡り歩くことでファインマン・ダイアグラムは広まった.また,プレプリント,(未公刊)講義ノート,教科書といった要素も重要である.

何に対してファインマン・ダイアグラムは使われたのだろうか.ここで,道具は多用途でなければならないというレヴィ=ストロースの言葉が思い出される.物理学者はそれぞれの問題を処理するために,さまざまにファインマン・ダイアグラムを改変した.この改変の仕方はまったくのランダムではない.つまり,教育を通じた人的な影響が見られ,大学ごとに特徴が出るのである.その上に彼らは,ファインマン・ダイアグラムを,何らかの物理的なプロセスを表現するものであるとか,有用な記憶法であるとか,図式的な推論法であるとか,異なるふうに解釈していた.また,ファインマン・ダイアグラムからは,チューのS行列理論のプログラムが生まれたが,チューによるファインマン・ダイアグラム解釈は教育的次元から政治に至るまでの,彼の背景を反映したものとみなせる.

なぜファインマン・ダイアグラムは定着したのだろうか.ある程度時間が経つと,物理学者は,一見適切ではないような問題に対してもファインマン・ダイアグラムを適用するようになった.それは,ファインマン・ダイアグラム以前に物理学者が慣れ親しんでいた図式的な表現(時空間内での物体の軌跡など)と親和的だったからだ.

以上のことから,ファインマン・ダイアグラムが社会的構成物であることが示されるが,それだけではロマン派の詩が社会的構成物であるのと変わらない.次に問うべきは,ファインマン・ダイアグラムという社会的構成物がいかなる点で他の社会的構成物と異なるのかということだ.

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Written on January 24, 2019.
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