ハイゼンベルクとディラックによる量子統計と量子力学の統合——Monaldi (2013)

D. Monaldi, “Early Interactions of Quantum Statistics and Quantum Mechanics”, in S. Katzir, C. Lehner, and J. Renn (eds.), Traditions and Transformations in the History of Quantum Physics (Berlin: Edition Open Access, 2013), Ch. 5.

ハイゼンベルクの「量子力学における多体問題と共鳴」(1926年6月)とディラックの「量子力学の理論について」(1926年10月)はともに,同種粒子の交換対称性を導入することによって量子力学と量子統計を統合した論文として知られている.しかし,両者のアプローチは大きく異なる.ハイゼンベルクはHe原子の問題を解く必要と,量子力学の(自身による)粒子的な解釈を擁護してシュレーディンガーの波動解釈に反対するという目的から多体系の量子力学にアプローチし,量子共鳴現象(粒子は相互作用する)を取り上げた.彼はマクスウェル・ボルツマン統計に依拠しており,ボース・アインシュタイン統計は,共鳴によるエネルギー状態の分裂と,排他原理と整合的な量子論的状態の選択によって生じるものだと考えたが,この時点での彼のボース・アインシュタイン統計に関する理解は十分ではなかった.ディラックは,シュレーディンガーの波動形式を数学的に再定式化するという動機から出発し,粒子間の相互作用を無視して,同種粒子からなる系の対称性を認め,観測可能量のみに依拠するという前提条件に依拠したため,同種粒子の交換が行われただけの二つの状態は同じ状態であるという結論に行き着いた.これにより,粒子交換の対称性とボース・アインシュタイン統計(光量子がこれに属する)を,反対称性と排他原理およびフェルミ・ディラック統計(電子などの物質的粒子がこれに属する)を関係づけることができた.このような違いがあるものの,ハイゼンベルクもディラックも,伝統的な粒子概念を変革することによってではなく,むしろ,粒子的な解釈を維持するところから新しい成果を得たという共通点がある.

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Written on August 30, 2017.
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粒子の統計的独立性,交換対称性,不可識別性——Monaldi (2009)

Daniela Monaldi, “A Note on the Prehistory of Indistinguishable Particles”, Studies in History and Philosophy of Modern Physics 40 (2009): 383–394.

古典統計と量子統計の分かれ目として粒子の不可識別性が挙げられることが多い.しかし歴史的には,それは二つのまったく異なる起源を持つ.ひとつは光量子の統計的相関,もうひとつは量子理想気体の分子の交換対称性である.今日ではこの二つの性質は不可識別性の帰結であるが,そのことはボース・アインシュタイン統計が定式化されてもなかなか認識されなかった.

プランクが黒体放射の法則を導くときに,すでに不可識別性が現れているとの見方がある.しかしそれは誤りである.彼はたしかに気体と放射のアナロジーを用いながらエネルギー要素の共鳴子への分配に関する組み合わせ数を考えたが,そこで気体分子に対応する共鳴子自身は,ボルツマンの組み合わせ論における気体分子と同様に,識別可能であるとみなされていた.確率をエネルギーで書くことが必要になったときに,はじめて「識別不可能」なエネルギー要素の形で書いているだけであって,それは数学的な補助に過ぎなかったのである.その後,アインシュタインはプランクとは異なるエネルギー要素の理解を示しつつ,光量子論との関連を示唆し(1906年),またデバイとエーレンフェストによる放射則の新しい導出によってエネルギー量子が放射のエネルギーの単位であることが示されたが(1910年),エネルギー量子の統計的な性質に変更が加えられることはなかった.他方でアインシュタインの光量子論は,光量子に気体分子と同様の役割を付与しており(1905年),また光の波動性と粒子性を明らかにしたが(1909年),光量子の波動的側面を認めることは光量子のあいだの独立性を失わせることであると気付いていたようだ.エーレンフェストらは,光量子の相互の非独立性がプランクの放射則を導く際に鍵となっていることを明示的にした.

理想気体の量子論では,エントロピーの示量性に関する問題で分子の交換対称性が問題となった.既に1902年にギブスは同種粒子の交換の可能性について考察していたが,これを不可識別性の起源とみなすことはできない.やがて放射の理論が成功するとともに,量子理想気体の理論が焦点となり,ボルツマンの原理によって絶対エントロピーの決定を可能にするようなプログラムが始まった.しかしそうすると,エントロピーに示量性を持たせるためにつけくわえる項に物理的な意味を与えなければならない.この問題に取り組んだのはテトローデであり,彼とザックールのエントロピー表式は高温域では経験的な成功を収めた.プランクもこれに続き,量子と絶対エントロピーのあいだに関係があるという考えから,『熱輻射論』第4版(1921)では交換対称性と非独立性の考察をギブスの方法を用いて行ったが,しかしどちらの概念も明確になっているとは言い難い.

1924年に始まるボース・アインシュタイン統計では,創始者自身が粒子の不可識別性を認識していたわけではない.ボース自身としては,ボルツマン統計と同じことを光量子に関して行っているつもりであった(結果的には光量子をプランクがエネルギー要素にしたのと同じように扱っていたのだが).アインシュタインはこれを見て,(それまでの放射理論とは逆に)気体分子を光量子のように扱おうと試みた.第一論文の時点では,アインシュタインはまだその含意を十分に汲み取っていないように思われる.エーレンフェストはこの論文に対して,量子あるいは分子が統計的に独立な対象として扱われていないと反対したが,アインシュタインはそれに応じて,むしろそれこそが新しい統計の源となることを指摘した.新しい統計はどれだけの分子が位相空間のそれぞれのセルにあるかを問い,独立性を認める古い統計は位相空間のどのセルにそれぞれの分子があるかを問う.しかし注意すべきは,これは粒子の不可識別性ではないということである.アインシュタインにとって粒子の独立性の喪失は,それら粒子のあいだでの相互作用を表す徴候でもあった.

新しい統計における統計的(非)独立性と交換対称性との関係に向かって踏み出したのはシュレーディンガーであり,彼はプランク流の理解に対して批判を試みたが,アインシュタインの理解にも満足していなかった.彼の考えでは,ボルツマン統計であっても,気体分子を波動の系として放射と同様に考えれば,デバイがプランク則を成功裏に得たように,アインシュタインの気体論が得られるのではないかと思われた.シュレーディンガーはたしかにこの議論のなかで交換対称性と統計的(非)独立性,そして新しい量子統計の規則のあいだの関係をつけたが,この規則を新しい統計の基礎とすることには反対した.通常の物理的対象をラジカルに改変してでも,古い統計的対象の古いモデルを保存しようとした.

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Written on August 29, 2017.
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アインシュタインの第三の量子理想気体理論——Pérez and Sauer (2010)

Enric Pérez and Tilman Sauer, “Einstein’s Quantum Theory of the Monatomic Ideal Gas: Non-Statistical Arguments for a New Statistics”, Archive for History of Exact Sciences 64 (2010): 561–612.

1924年から25年にかけてアインシュタインは,量子理想気体に関して3本の論文を出版した.第一論文は1924年7月10日発表,同年9月20日出版,第二論文は1924年12月署名,1925年1月8日発表,同年2月9日出版,第三論文は1925年1月29日発表,同年3月5日出版である.このうち最初の2本にこれまでの歴史的分析は集中してきた(新しい統計,ゆらぎの分析,ボース・アインシュタイン凝縮など)が,熱力学的手法の採用などを鑑みれば,最後のものも分析に値する.さらに,モナルディが主張したように,最初の2本の論文でボースもアインシュタインも新しい統計の含意に十分に気付いていなかったとするのは行き過ぎであるが,アインシュタインが新しい統計の意義に気付いたのは最初の論文と2本目の論文のあいだであり,またエーレンフェストが批判を加えてきたのもまさにその含意のゆえであった.そこで,アインシュタインの3本目の論文と,それに先立つ半年間に起きたことを検討する.

最初の2本の論文ではアインシュタインは,ボースによる黒体放射の法則の新しい導出方法から始まって,低温での凝縮現象を予言した.このときに彼は,放射と気体分子のあいだのアナロジーに依拠するとともに,光量子が統計的な独立性を失うような,新しい統計の方法を採用していた.しかし,粒子が統計的な独立性を失うことに対しては,ハルパーンとエーレンフェストから批判があり,その含意をよく検討することが求められた.第三論文はエーレンフェストへの応答と見ることができる.そして実際,この論文は,形式上からも最初の二論文からは独立している.第三論文は,光量子と気体分子のあいだのアナロジーに依拠しながら,放射と気体に関して断熱変化に関する考察と次元解析を適用して,保存力下の量子理想気体に関する分布則を求めた.だがここでは,いわゆるボース・アインシュタイン統計は使われなかった.このことは,後のアインシュタインの量子論に対する懐疑の始まりと見ることもできよう.

ところが,実際に周囲の物理学者が着目したのは,第一論文と第二論文のほうであって,第三論文に対してはほとんど言及がなされなかった.スメーケル,ヨルダン,プランク,シュレーディンガーらが言及はしているが,深い議論はされなかった.いずれにせよ,第三論文への言及がほとんど見られないことは,新しい統計の使用に関して,ほとんどだれも心配していなかったことを示唆している.統計物理に対するアインシュタインの実質的に最後の論文だった第三論文が忘れられたのはもっともなことである.なお,エーレンフェストとアインシュタインは,粒子の「統計的独立性」については語るが,「不可識別性」とは言わないことに注意されたい.

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Written on August 28, 2017.
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シュレーディンガーの統計力学——Hanle, Schrödinger's statistical mechanics (1975)

Paul A. Hanle, “Erwin Schrödinger’s Statistical Mechanics, 1912–1925”, PhD. Dissertation, Yale University, 1975, Preface.

1926年以前のシュレーディンガーの研究のうち,およそ半数が統計力学に関するものである.この博士論文は,1912年から1925年にかけて,ヴィーンとチューリヒでシュレーディンガーが行った統計力学の研究のうち,原子の実在性からの帰結,個体の比熱および格子振動,量子理想気体の統計力学を検討する(シュレーディンガー本人はこの他にも,古典力学を電気的相互作用に適用する試みを行っているが,これは扱わない).彼はボルツマンから運動論の研究プログラムに関して大きな影響を受けた.またヴィーンでの指導教員だったエクスナーからは,物理法則の統計的性質や,具体的な研究トピックの設定などで大きな影響を受けたが,1920年になるまでは,ヴィーンは量子物理学に関してはそれほど生産的な場所ではなかった.シュレーディンガーは1920年からいくつかのポジションを渡り歩くが,1924年からはチューリヒで理想気体の量子統計力学の研究プログラムを開始する.これと波動力学が,チューリヒでの大きな成果だった.量子理想気体の研究はまた.波動力学建設の背景をなすという意味でも重要であった.

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Written on August 27, 2017.
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シュレーディンガーの量子理想気体の理論——Hanle, Schrödinger's statistics of gases (1977)

Paul A. Hanle, “The Coming of Age of Erwin Schrödinger: His Quantum Statistics of Ideal Gases”, Archive for History of Exact Sciences 17 (1977): 165–192.

1924年〜25年の彼の量子理想気体理論の発展を追う(波動力学の論文は1926年の出版である).1914年,ネルンストが低温領域での気体の「縮退」について述べて以来,量子理想気体は物理学者たちによってさかんに論じられた.シュレーディンガーは1920年ごろからこの問題に興味を持ち始め,1924年にこの問題に関する最初の論文「気体の縮退と平均自由行程」を出版した.彼はとくに,理想気体のエントロピーが示量性を持つかどうか,という問題に興味を持っていた.1925年のボースとアインシュタインの新しい統計により,気体のエントロピーの計算方法について,プランクとシュレーディンガーのあいだで激しい議論が闘わされることになったが,これを通じてシュレーディンガーは古い統計と新しい統計を綿密に検討し,注目を浴びることとなった.「アインシュタインの気体論について」(1925)に代表されるシュレーディンガーの貢献は,現在の統計熱力学からすれば的を外しているとも思われがちだが,物質波など波動力学の前提をなす発想が使われているという点でも重要である.

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Written on August 27, 2017.
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