Prentis on Poincaré's quantum theory (1995)

J. Prentis, “Poincaré’s proof of the quantum discontinuity of nature”, American Journal of Physics 63 (1995): 339–350.

1912年1月,死の半年前にポワンカレ(Henri Poincaré, 1854–1912)が発表した量子論についての論文の分析.1911年,放射と量子の理論に関するソルヴェイ会議に参加したポワンカレは量子仮説に賛意を示し,同年12月にはパリのアカデミーで「量子の理論について」(Sur la théorie des quanta)を発表,1912年1月に同じ題の論文を出版した.

この論文におけるポワンカレの目標は,プランクの量子仮説が放射則を導くために十分であるのみならず,必要でもあることを示すことであった.そのためにポワンカレは,共鳴子と原子に関するモデルを立て,これに関する考察から平衡状態が一意であること,プランクの放射則の十分条件と必要条件,量子的非連続性の普遍性を主張したのだった.彼の考察の特徴は,熱力学的平衡状態を前提せず,共鳴子の相互作用のメカニズムから放射則を導いたことにある.特に,プランクの量子仮説の必要性を示す段階では,ある関数 Φ とフーリエの積分定理が主要な役割を果たしたが,この推論ではマクロな性質(共鳴子のあいだのエネルギー分配)からミクロな性質(共鳴子の性質)が導かれている.これを著者は「逆統計力学」と呼んでいる.

ポワンカレはこの論文を発表してすぐに死去したが,その影響は絶大だった.たとえばフランスではこの後量子論に関する論文が増大するし,また英国ではジーンズが量子論を受容するようになり,『放射と量子論についての報告』(Reports on Radiation and the Quantum Theory, 1914)を執筆した.プランクもポワンカレの Φ 関数に注目し,それが状態積分・状態和に相当することを指摘し(1921),またそれに対して文字 Z をあてた(1924).ファウラーはポワンカレの証明を改良し(1921),ダーウィンとともに分配関数の方法を発展させた(1922).

関連記事

Written on June 30, 2017.
Permalink

Mehra & Rechenberg on Fowler (1982)

J. Mehra and H. Rechenberg, The Historical Development of Quantum Theory Vol. 4 (New York: Springer, 1982),

量子論の歴史を包括的に記述したMehraとRechenbergの大著 The Historical Development of Quantum Theory から,ファウラー(Ralph Howard Fowler, 1889–1944)の1920年代の業績とそれに関連する部分を読んだ.

ファウラーは1889年1月17日に生まれ,数学と古典学の教育を受け,またクリケット,フットボール,ゴルフなどのスポーツもよくした.1906年12月にトリニティの奨学生に選ばれ,1909年に数学優等試験の第一部を,1911年に第二部を通過し,学士号を取得.二階の微分方程式に関わる純粋数学の研究に従事し,1913年にレイリー数学賞を受賞.1914年,トリニティ・カレッジのフェローに選出.

第一次世界大戦の勃発とともに,ファウラーは海軍で戦時研究に従事したが,ガリポリの戦いで肩を負傷し,療養中にヒルの誘いをうけて防空研究のためのセクションに移る.ここでの経験は,ファウラーに,他分野の科学者との協同や,また数学的研究と実験との関係,そして応用物理学を教えた.1919年4月に除隊すると,ファウラーは大英帝国勲章を受けるとともに,トリニティに戻った.そこで彼は,ジーンズの『気体の動力学的理論』やエディントンの『重力の相対論についての報告』などを読み,ミルンとともにいくつかの講義を聴講した.また,キャヴェンディッシュで物質中のα線と電子について,ラザフォードのもとで実験研究も行った(1921年にはラザフォードの娘アイリーンと結婚している).

1921年からは,ファウラーは量子論と統計力学についての論文を書いている.最初のものは,ポワンカレの1912年の論文で使われていたフーリエの積分定理を拡張して量子論へと適用するものだった.ポワンカレは,量子仮説がプランクの法則に至りうる唯一の仮説だと論ずるために分配関数を導入したのだが,そこで現れる積分を「逆転」させて共鳴子のエネルギーの確率を得るためにフーリエの積分定理を使用した.ジーンズは1914年にポワンカレのこの論文を高く評価していたのだが,ファウラーはそのステップに弱点を見つけ,それを改良したのである.

ファウラーは統計力学に関してはジーンズ『気体の動力学理論』の影響を受けており,1922年,ファン・デル・ワールスの状態方程式の改良や,また運動論における積分が収束するための条件を検討している.これは後にレナード・ジョーンズに影響を与えた.また,運動論と統計力学に関してはファウラーはダーウィン(Charles Galton Darwin, 1887–1962)と共同研究を進め,系におけるエネルギーの分配を決める問題を論じた.既にジーンズは統計力学に量子論を導入する必要性を指摘していたが,自ら体系的な議論は展開しなかった.エーレンフェストとトルカルは1920年に,位相空間をh^f の大きさに分割し,それぞれに等しい重率を与えるという,量子統計を予感させる方法を述べていた.

ダーウィンとファウラーは次のように論じた.古典統計力学では,確率を最大化し,それをエントロピーと関連づけるが,どちらのステップでも近似が使われている上に,量子系では正当化しづらい.そこで,統計集団(assembly)における平均値を多項定理によって計算するという方法を採った.そのプロセスにおいて分配関数を導入し,系のエネルギーや,そのゆらぎを分配関数によって表現した.使用例は少なかった(プランク振動子,自由原子)が,この方法はきわめて満足のいくもので,古典系と量子系へのアプローチを統合するものであった(1922).そして続く論文で,ファウラーは分子の解離に対してこのアプローチを適用して,エーレンフェストとトルカルの成果を改良し,また高温域における水素のイオン化を論じた(1923).イオン化の問題はケンブリッジでは興味を引いた問題であり,ミルン(Edward Arthur Milne, 1896–1950)がそれを応用して恒星中の大気の温度を推測していた.また,ファウラーとミルンは,イオン化のプロセスに関する詳細釣り合いの議論を展開した.詳細釣り合いの原理はファウラーお気に入りの原理で,彼はこれを速いα線による電子捕獲に関する実験結果を記述するために用いた(1924).

1925年までのファウラーの仕事は量子統計力学に関するもので,彼はこれに関する包括的な論考により1923〜24年のアダムズ賞を受賞した.同時に,量子論の諸問題にも深く関わり,ボーアの原子構造論と共有結合の関係について論じ(1923),コペンハーゲンを訪問した後はスペクトル線についての論文を2本出版した(1925).1925年前半までには,ファウラーは一級の物理学者の仲間入りをしており,ハイゼンベルクの行列力学論文を,校正刷りの段階で送ってもらうなどしていた(1925年8月中旬).また彼はハートリー(Douglas Rayner Hartree),ストーナー(Edmund Clifton Stoner),トマス(L. H. Thomas)など多くの学生を教育し,ケンブリッジにおける量子論のパイオニアの役割を果たした.またディラックを指導し,ボーアの量子論を教えたのもファウラーであった.

関連記事

Written on June 22, 2017.
Permalink

Navarro, A dedicated missionary (2009)

J. Navarro, “A dedicated missionary”. Charles Galton Darwin and the new quantum mechanics in Britain. Studies in History and Philosophy of Modern Physics 40 (2009): 316–326.

通常の量子論の歴史では,大陸における展開に重点が置かれる.それは相対論の歴史でも同様であったが,Warwickの研究に見られるように,近年は,ケンブリッジの教育的伝統に着目することで,大陸重視の見方が覆されつつある.この論文は,ケンブリッジで教育を受け,数学優等試験(トライポス)を通過し,英国における量子力学の普及に貢献した物理学者チャールズ・ゴルトン・ダーウィン(Charles Galton Darwin, 1887–1962;進化論のダーウィンの孫)の1920年代の業績に着目することで,英国における量子論の展開の一端を明らかにする.

ダーウィンは1909年にトライポスを5級で通過した.この世代のトライポス合格者は数学的テクニックを重視した.その物理教育ではラーモアの教科書が使われたため,彼らはエーテルにコミットし,電磁気学的な物質観を支持した.また,ダーウィンは教師ハーマンや,ジェイムズ・ジーンズの電磁気学からも影響を受けている.ダーウィンは卒業後,マンチェスターのラザフォードのもとで数理物理学講師を務め,放射線の散乱や回折の問題,原子構造論に従事するとともに,実験の技術も習得し,X線に関していくつかの実験的論文を発表する(1912年から1913年).また同地でボーアとも会ったが,ダーウィンのα線の吸収と散乱に関する考えはボーアの原子構造論に影響を与えた.その後ダーウィンは,数学を重視するラングラーとしての出自と,実験的・理論的アプローチとのあいだの緊張のなかで生きていく.

ダーウィンは第一次世界大戦中,戦時研究に従事したが,1919年にクライスト・カレッジのフェロー兼講師となって母校に戻る.そこでダーウィンは,量子論の「布教」を行うこととなった.しかしそこで言う量子論とは現象論的アプローチであって,プランクの第二理論やアインシュタインの光量子論は含んでいなかった.ダーウィンのこのような態度は,光の波動説への信頼と,動力学の法則(これ自体にはエネルギーの保存は含まれない)への信頼から成っていた.エーテルと物質のあいだの相互作用については,マックスウェルの電磁気学が補完される必要があったが,そこでは必ずしもエネルギーが保存されなければならないわけではなかった.ここから,もし必要であれば,ダーウィンにはエネルギーの非保存を受け入れる用意があった.プランクの第二理論にはエネルギーの保存を守るためのアドホックな仮説が多く含まれており,人工的であるとダーウィンは見ていた.このアイディアには,ボーアも部分的に賛同しており,これが1924年のBKS理論に結実することとなる.

1920年代には,ダーウィンはファウラーと共著で系におけるエネルギーの分配[黒体放射の問題など]に関する論文を発表した.ファウラーもケンジブリッジで純粋数学の教育を受け,後に量子論を学んで英国への量子論の導入に貢献した人物である.ファウラーとの成果は,系におけるエネルギーの分配を決めるときの計算テクニックであるが,彼らはそれが古典系にも量子系にも等しく有効であり,両者は対応原理によって関係づけられる,と主張している点が目を引く(この点は,ダーウィンが1925年から26年にかけて行ったゼーマン効果の研究でも強調されている).ダーウィンとファウラーは,1920年代の英国における量子論では代表的存在であり,ディラックの論文の査読を担当したのも彼らであった.

1925年にハイゼンベルクの行列力学が,1926年にシュレーディンガーの波動力学が登場すると,ダーウィンはこれら二つの理論について議論するため,1927年の春をコペンハーゲンで過ごした.この滞在の結果,ダーウィンは波動力学の「伝道師」となった(この点はボーアとは対照をなす).また,波動力学を支持したことは,彼の教育的背景にも適うことであった.行列力学を使用したパウリの論文は,ダーウィンにとっては,数学的には簡便かもしれないが,物理的な実在を捉えてはいないものであった.これに対して電子の波動力学は,光の場合との完全なアナロジーを与え,視覚化可能であるがゆえに望ましいのであった.また波動力学は,新しい力学の古典力学との連続性を保証するものでもあった.物理理論はプロセスの動力学でなければならない.1930年までのダーウィンの研究は,行列力学への応答と言っても差し支えない.ディラックの相対論的量子力学の登場にともない,ダーウィンは自分のプロジェクトを完遂すること諦めたようにも見えるが,それでも古典力学との連続性が放棄されるべきではないと考えつづけた.

一般向け講演を出版した1931年の『物質の新概念』では,ダーウィンは次のような見解を述べている.数学はたしかに必要である.しかしそれだけでは完全ではない.むしろそれは,真の物理学への足場である.ド・ブローイの原子は,ハミルトンによる光と粒子のアナロジーの自然な延長であり,それこそが「自然な」物理学を与える.量子力学では,波動関数が実在を表す.波動関数はいまのところ観測可能ではないが,それはかつての原子と同様である.根本的なものは視覚化可能でなければならない.これには実用的な理由のみならず,存在論的な理由があった.行列力学は足場とはなるが,真の理論ではない.

関連記事

Written on June 14, 2017.
Permalink

Gavroglu and Simões, Quantum chemistry in Britain (2002)

K. Gavroglu and A. Simões, Preparing the ground for quantum chemistry in Great Britain: The work of the physicist R. H. Fowler and the chemist N. V. Sidgwick, The British Journal for the History of Science 35 (2002): 187–212.

1920年代から30年代にかけて,物理学者ファウラーとシジウィックが,英国における量子化学の導入において果たした役割を論じた論文.ドイツでは量子力学に基づく第一原理的な方法が,米国ではプラグマティックで半経験的な手法が好まれていたが,英国ではこれらとは別に,応用数学,あるいは計算技術として量子化学を捉える傾向があった.ファウラーとシジウィックは,自身では量子化学にそれほどの貢献はしなかったものの,当時新興の量子力学を積極的に擁護(とくに波動力学の強力さを主張)して,英国における量子化学の形成に大きな影響を残した.それは多くの弟子を教育することや,教科書の執筆によっていた.

ファウラーの学生だったレナード・ジョーンズとハートリーは,ファウラーの還元主義的で計算を重視する精神を受け継いだ.ハートリーの結果は,1950年代後半の電子計算機による計算へと生かされることとなる.コウルゾンの博士論文は,量子化学における計算手続きを拡張したものであるが,レナード・ジョーンズやハートリーをはじめとするケンブリッジの応用数学・数理物理学の影響は明らかである.

シジウィック(Nevil Vincent Sidgwick, 1873–1952)も大きな影響を残した.彼はもともと古典学出身であったが,ライプツィヒのオストヴァルトのもとで物理化学を,テュービンゲンのペッヒマンのもとで有機化学を学んだ.業績としては有機反応の反応速度論や,可溶性と化学構造の関係に関する研究などが挙げられるが,1910年に出版した有機化学の教科書の中ではすでに物理化学の重要性を強調している.また,ボーアの原子構造論や,ルイスの原子価理論も習得し,1927年には『原子価の電子理論』を出版して,量子力学の説明力が強力であることを示した.だが,彼の「化学者は物理学者の言葉を使うべき」という主張は,有機化学者の反発をまねいた.

1930年代には,シジウィックは,ポーリングの共鳴理論によって,量子力学の言語を有機化学に持ち込めると考えた.共鳴概念をめぐっては混乱や異論があったものの,シジウィックは化学者むけに共鳴理論を単純化して広めた.また,サットンと協力して,オックスフォードの化学研究の伝統を「現代化」することにも成功した.そして,英国で量子化学を研究した科学者は,その多くがこの研究室との関わりを持った.そのうちの一人がコウルゾンであった.だが彼は1955年になると,化学と量子力学の関係についてはかつてのような還元主義ではなく,量子力学は化学現象に対する理解と意味を与えるものだという見解を採ったのだった.

関連記事

Written on June 9, 2017.
Permalink

Gavroglu and Simões, Neither physics nor chemistry (2012)

K. Gavroglu and A. Simões, Neither physics nor chemistry: A history of quantum chemistry (The MIT Press, 2012).

量子化学の成立を論じた本から,英国の物理学者ファウラー(R. H. Fowler, 1889–1944)について論じた部分を読む.

ファウラーについては,第3章「応用数学による量子化学」で扱われる.ロンドンやハイトラーらの量子化学は第一原理に基づいたアプローチであり,ポーリングやマリケンらのアプローチがプラグマティックなものであるならば,英国にいたレナード・ジョーンズやハートリーらのアプローチは応用数学を拡張したものとみなせる.応用数学的なアプローチで重要なのは,ケンブリッジ流の数理物理学の伝統を受け継ぐファウラーである(コウルゾンはファウラーの弟子だったが,物理学に化学を還元するという方針にはやがて反対するようになる).

ファウラーは戦間期のケンブリッジを代表する数理物理学者であり,前期量子論から量子力学,そしてその応用である量子化学にわたる業績を残した.もともとは純粋数学出身だったが,第一次大戦に従軍して戦時研究に関わった経験から数理物理学へと転向したという.1921年には,量子の問題にフーリエの積分定理を適用し,翌年にはダーウィンと協同して統計力学についての論文を出版して分配関数を導入,高温域における気体の解離を論じた.これに関連した論考で,1923–24年のアダムズ賞を受賞している.1923年7月13日から14日に開かれたファラデー協会での講演にルイスが招かれて「原子価の電子論」という講演を行い,化学現象を理解するために物理学が必須であることを説いたが,ファウラーはこれに従い,同年にボーアの原子構造論を原子価の物理的性質を明らかにするために用いた.1926年,恒星の内部の圧力や温度を予測する新しい方法を提案して,恒星スペクトルを研究した(フェルミ=ディラック統計につながるアイディアも認められる).強電解質に関する業績もある.

ファウラーは新しい量子力学の価値を認め,積極的に推進し,英国に普及させようとした.ファウラーは,レナード・ジョーンズの指導教員であり,その分子間力のモデルの計算的利点を認めた.またハートリーの指導教員も務め,そのボーアの原子モデルに関する計算を,より定量的な研究への道を開くものとして賞賛した.

1931年の英国科学振興協会の化学部会の会合で,ファウラーは原子価理論の量子力学的解釈について講演した.彼によれば,原子価の理論は量子力学の一部であり,近い将来には完全な量子力学的計算が達成されるに違いないと述べた.この期待はハイゼンベルクによって批判された.

関連記事

Written on June 9, 2017.
Permalink