■Mehra & Rechenberg on Fowler (1982)

J. Mehra and H. Rechenberg, The Historical Development of Quantum Theory Vol. 4 (New York: Springer, 1982),

量子論の歴史を包括的に記述したMehraとRechenbergの大著 The Historical Development of Quantum Theory から,ファウラー(Ralph Howard Fowler, 1889–1944)の1920年代の業績とそれに関連する部分を読んだ.

ファウラーは1889年1月17日に生まれ,数学と古典学の教育を受け,またクリケット,フットボール,ゴルフなどのスポーツもよくした.1906年12月にトリニティの奨学生に選ばれ,1909年に数学優等試験の第一部を,1911年に第二部を通過し,学士号を取得.二階の微分方程式に関わる純粋数学の研究に従事し,1913年にレイリー数学賞を受賞.1914年,トリニティ・カレッジのフェローに選出.

第一次世界大戦の勃発とともに,ファウラーは海軍で戦時研究に従事したが,ガリポリの戦いで肩を負傷し,療養中にヒルの誘いをうけて防空研究のためのセクションに移る.ここでの経験は,ファウラーに,他分野の科学者との協同や,また数学的研究と実験との関係,そして応用物理学を教えた.1919年4月に除隊すると,ファウラーは大英帝国勲章を受けるとともに,トリニティに戻った.そこで彼は,ジーンズの『気体の動力学的理論』やエディントンの『重力の相対論についての報告』などを読み,ミルンとともにいくつかの講義を聴講した.また,キャヴェンディッシュで物質中のα線と電子について,ラザフォードのもとで実験研究も行った(1921年にはラザフォードの娘アイリーンと結婚している).

1921年からは,ファウラーは量子論と統計力学についての論文を書いている.最初のものは,ポワンカレの1912年の論文で使われていたフーリエの積分定理を拡張して量子論へと適用するものだった.ポワンカレは,量子仮説がプランクの法則に至りうる唯一の仮説だと論ずるために分配関数を導入したのだが,そこで現れる積分を「逆転」させて共鳴子のエネルギーの確率を得るためにフーリエの積分定理を使用した.ジーンズは1914年にポワンカレのこの論文を高く評価していたのだが,ファウラーはそのステップに弱点を見つけ,それを改良したのである.

ファウラーは統計力学に関してはジーンズ『気体の動力学理論』の影響を受けており,1922年,ファン・デル・ワールスの状態方程式の改良や,また運動論における積分が収束するための条件を検討している.これは後にレナード・ジョーンズに影響を与えた.また,運動論と統計力学に関してはファウラーはダーウィン(Charles Galton Darwin, 1887–1962)と共同研究を進め,系におけるエネルギーの分配を決める問題を論じた.既にジーンズは統計力学に量子論を導入する必要性を指摘していたが,自ら体系的な議論は展開しなかった.エーレンフェストとトルカルは1920年に,位相空間をh^f の大きさに分割し,それぞれに等しい重率を与えるという,量子統計を予感させる方法を述べていた.

ダーウィンとファウラーは次のように論じた.古典統計力学では,確率を最大化し,それをエントロピーと関連づけるが,どちらのステップでも近似が使われている上に,量子系では正当化しづらい.そこで,統計集団(assembly)における平均値を多項定理によって計算するという方法を採った.そのプロセスにおいて分配関数を導入し,系のエネルギーや,そのゆらぎを分配関数によって表現した.使用例は少なかった(プランク振動子,自由原子)が,この方法はきわめて満足のいくもので,古典系と量子系へのアプローチを統合するものであった(1922).そして続く論文で,ファウラーは分子の解離に対してこのアプローチを適用して,エーレンフェストとトルカルの成果を改良し,また高温域における水素のイオン化を論じた(1923).イオン化の問題はケンブリッジでは興味を引いた問題であり,ミルン(Edward Arthur Milne, 1896–1950)がそれを応用して恒星中の大気の温度を推測していた.また,ファウラーとミルンは,イオン化のプロセスに関する詳細釣り合いの議論を展開した.詳細釣り合いの原理はファウラーお気に入りの原理で,彼はこれを速いα線による電子捕獲に関する実験結果を記述するために用いた(1924).

1925年までのファウラーの仕事は量子統計力学に関するもので,彼はこれに関する包括的な論考により1923〜24年のアダムズ賞を受賞した.同時に,量子論の諸問題にも深く関わり,ボーアの原子構造論と共有結合の関係について論じ(1923),コペンハーゲンを訪問した後はスペクトル線についての論文を2本出版した(1925).1925年前半までには,ファウラーは一級の物理学者の仲間入りをしており,ハイゼンベルクの行列力学論文を,校正刷りの段階で送ってもらうなどしていた(1925年8月中旬).また彼はハートリー(Douglas Rayner Hartree),ストーナー(Edmund Clifton Stoner),トマス(L. H. Thomas)など多くの学生を教育し,ケンブリッジにおける量子論のパイオニアの役割を果たした.またディラックを指導し,ボーアの量子論を教えたのもファウラーであった.

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Written on June 22, 2017.