金山「武谷三男論」(2016)

金山浩司「武谷三男論:科学主義の淵源」金山修編『昭和後期の科学思想史』(勁草書房,2016年),第1章.

本論文は,三段階論で知られる武谷三男が,長い間にわたって,さまざまな論題についてさまざまに書き連ねてきた論考を貫く一本の糸を探り出す試論である.その糸とは科学主義である.科学者は(正しく用いれば)科学を,自然界のみならず,社会・政治をも包括せしめるようにできる.存在(Sein)の領域と,価値(Sollen)の領域に区別はない.このような見解は,実は章題に続くエピグラフに明らかである.

自然科学は最も有効な最も実力ある最も進歩せる学問である事は万人が認めるところである.かかる優れた学問を正しくつかみ正しく押し進めている科学者は最も能力ある人々でありこれら人々の考え方は必ずや一般人を導くものでなければならぬ.(武谷三男「革命期における思惟の基準」『科学と技術 武谷三男著作集4』(勁草書房,1969年[1946年]),12頁)

このような武谷の見方が一面的に過ぎると批判することは簡単である.しかし真に問題なのは,武谷の立論が戦後にきわめて大きな影響力を誇ったという事実である.そのプロセスを解明しないことには,今後同じようなことが繰り返されるであろう.

Written on April 30, 2017.
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網谷『理性の起源』(2017)

網谷祐一『理性の起源:賢すぎる,愚かすぎる,それが人間だ』河出書房新社,2017年.

人間はほんとうに理性的なのか.それにしては人間は簡単なクイズも間違えてしまう.あるいは,人間は過剰に理性的ではなかろうか.相対性理論のような科学理論を生み出せるほどの高度な理性が,自然界で生き抜くために必要とは思えない.また,人間が何らかの意味で理性的であったとして,理性は進化のプロセスの中で獲得できるようなものなのか.二重過程説を軸に,人間の理性の姿とその進化的起源を考察する.生物学の哲学への入門として好適.著者独特のユーモアも魅力.

Written on April 9, 2017.
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Callender, Taking Thermodynamics Too Seriously

Craig Callender, “Taking Thermodynamics Too Seriously,” Studies in the History and Philosophy of Modern Physics, 32 (2001): 539–553.

熱力学が重要な理論であることは疑いないし,そのことは物理学史上,多くの物理学者が認めてきたところである.しかし,統計力学の基礎をめぐる議論においては,多くの人々は熱力学の結果をあまりにも真面目に受け取っており,その結果,深刻な誤謬に陥っているように思われる.以下では,熱力学第二法則,平衡状態,相転移という三つの例においてそのことを示す.

熱力学の第二法則は,文字通りに読むと,「示量的な状態関数 S(A) は,平衡状態についてのみ定義されており,\Delta S \geq \int \delta Q/T を満たす」ということしか言っていない.「熱的に孤立した系のエントロピーは時間とともに単調に増加する」というよくある読み方ですら,「時間とともに単調に増加する」という要素を勝手に読み込んでいる.この路線は,たとえばアンサンブルの使用による第二法則の力学的な導出へと至ったが,それですら,力学系の再帰性を逃れることはできない.問題はアンサンブルの使用ではなく,個別の系の熱的な性質を,何らかの力学的な関数の単調な性質に訴えて説明しようとする態度にあり,もっと言えば,第二法則の主張をあまりにも文字通りに力学の言葉へと翻訳したことになる.「平衡状態においては,エントロピーは非常に長い観測時間にわたって,減少することはない」と言った読み方であれば,さまざまな難点をうまく克服できる.

平衡状態の概念は熱力学においてきわめて重要である.それは,ラフに言えば,「与えられた環境条件のもとで,系は近似的に一定のマクロな性質を持つ.系は,そのような状態にあるときに平衡状態にある」ということである.統計力学はこれを「熱的平衡は,定常な確率分布である」と翻訳する.だが第一に,このような見方は非現実的である.というのは,熱力学的な平衡状態は観測時間と関係付けられているのに対し,統計力学の平衡状態は無限に長い時間にわたっている(もっとも,この点そのものは深刻な問題にはならないだろうが).第二に,先の再帰性反論は,マクロな平衡状態に対応するミクロな状態は存在しないということを含意する.第三に,確率分布そのものについても,非平衡な初期分布から定常な分布へと本当に緩和するのかどうかに問題がある.ここでも,「熱力学的平衡状態が対応するのは,ある観測時間スケールにおいて,系のマクロな性質を近似的に一定のままにするような,ミクロな軌道の特別な集まりである」というような読み替えが有効だろう.

熱力学では,相転移は「関連する熱力学的ポテンシャルの振舞に特異性がある場合に生ずる」と理解されている.統計力学では,「相転移は,熱力学極限において,自由エネルギーが解析的でない場合に生ずる」(分配関数が特異点を持つ)とされている.しかし,統計力学では無限系においてしか相転移が生じない.多くの成功にも関わらず,熱力学極限で無限系を考えることが,つねに現実の有限系のよい近似であるとは限らない.問題は,分配関数に特異点があるときに相転移が生じる,という命題にある.熱力学における特異点を,そのまま統計力学の中に移入することには,別段なんの正当化も存在しない.

マックスウェルの魔,熱力学量のローレンツ変換についても同様の論文が書けるだろう.どちらの場合も,熱力学の法則をあまりにも文字通りに理解している.必要なのは,熱力学の法則を真に文字通りに理解することである.そうしたからといって,熱力学が輝きを失うことはない.

Written on April 6, 2017.
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Beiser, The genesis of Neo-Kantianism, Ch. 9.9--9.10

Frederick C. Beiser, The Genesis of Neo-Kantianism 1796–1880 (Oxford: Oxford University Press, 2014), Ch. 9.9–9.10

9. 新しい宗教

ランゲは唯物論の迷信・宗教批判を評価していたが,それでも宗教を完全に廃止しようと主張したわけではない.むしろ,『唯物論史』には宗教に対する深い共感が見られる.ランゲによれば,ヨーロッパの近代史におけるさまざまな革命を駆動してきたのはまさに宗教的信念であり,また唯物論の破滅的な結果を防ぐためには新しい形態の宗教が必要である.道徳的な世界を作るために大衆を導くことができるのは宗教のみである.

しかし,1848年の革命後には,どのような形態の宗教が必要なのだろうか?これは当時広く議論された問題であったが[自由宗教運動のことを指すのか?],ランゲ自身の態度は曖昧だった.確かに組織化された宗教に対しては不信を抱いていたが,さりとて宗教が消滅したり国家へと吸収されることも欲さなかった.自然科学が発達した時代にあって,宗教は(啓示宗教であれ自然宗教であれ)危機に瀕している.そこで,宗教を廃止するか,宗教を完全に改革するかしなければならない.ランゲは後者を採用し,そこで宗教は芸術,特に詩によって表現されるべきであり,司祭の役割は詩人が担うべきだと考えた.宗教は信仰の形式から美的な経験へと変わるべきだというのである.このような宗教観は18世紀から19世紀にかけてのロマン主義運動に端を発すると考えられる.しかし,ランゲの場合,美的経験は認識とはならないことに注意しなければならない.

ランゲによる宗教の美的改革は,理念と現実性あるいは価値と存在の領域の区別に基づいている.宗教の本質は,われわれの究極的な価値を表す理念的世界を作り出すことにある.だから,宗教は存在の領域で自然科学と張り合うべきではない(どうせ負ける).宗教とは芸術を通じて価値と理念を作り出す試みであり,これは知識の領域の外側にあるから批判の対象とはならない.このような方針は実はカントを受け継いだものである.ランゲは,カントが実践理性によって自然宗教を救おうとしたことは批判したが,宗教それ自体の可能性を実践理性によって正当化しようとしたことは認めたのである.

とはいえ,ランゲはカントに完全に従っているわけではない.カントによる叡智界と現象界の区別は,ランゲにおいては価値と存在の区別となる.これにより,ランゲは叡智界などという神秘的なものを排除しようと試みた.またランゲは,カントが実践理性によって保証しようとした自然宗教も受け入れなかった.道徳に神への信仰は不要であり,実際人間は神への信仰抜きでもうまくやっている.

では,新しい価値や理念をどのような基準によって決めるべきだろうか?『唯物論史』ではランゲはこの問いに明確な回答を与えていない.道徳性は積極的な基準を与えられない.「趣味の問題」といった文言も見えるが,最終的には,美的な基準に訴えることを考えていたように思われる.ところが,ランゲは『唯物論史』初版の序文で,自身の宗教観に対して「美的によいものであれば迷信や偶像崇拝も受け入れてしまうのではないか」という想定質疑を行い,自分の見解が時代精神の正しさに依拠していると述べる.これは相対主義的な立場への後退である.

10. 詩としての哲学

『唯物論史』では,しかし,詩的な妥当性(poetic validity)が何を意味するのかが不明なまま残された.この仕事は,ランゲの遺作となった『シラー哲学詩への入門と注釈』(1897年刊)で論じられている.ランゲはシラーの詩作に哲学的内容を見出して高く評価しており,形而上学を放棄した後の将来の哲学が向かうべき方向がそこにあると考えていた.『入門と注釈』でランゲは,知性的領域を真理(科学)の領域と美(芸術)の領域に分け,それぞれは別個のものであるとした.それらを統一しようというのは自然なことであるが,しかし,要求される基準がまったく違う以上,その望みはかなえられることはない.カントによれば知性的領域は真善美の三つに分かれるが,ランゲは道徳の領域を美のそれに従属させた.これは彼がヘルバルト哲学から出発したことを考えれば自然だろう.

ランゲのこのような方針は,カントの実践哲学をどう考えるかに影響を及ぼした.まず,ランゲはカントによる形而上学的観念の実践的正当化をかなりそのまま受け継いでいるように見えるが,カントが道徳に訴えるところでランゲは美的な要素に訴える.ランゲにとって,実践理性から論理的演繹を行うなどというのは混乱したことで,形而上学的観念の背後にあるのは美的必然性なのである.だから,形而上学的観念の正当化を与えてくれるのはその道徳性ではなく,その美,あるいは崇高である.

さてこうなると,ランゲの中には哲学の立場がなくなるように思われる.哲学は科学でも芸術でもないし,形而上学は知識の外側の詩の領域に置かれたからだ.しかし,哲学すべてが芸術となるのではない.経験的探究の方法を扱う批判的哲学は科学の一種となり,積極的な哲学[?positive philosophy]は伝統的な形而上学を担う芸術あるいは詩の一種となる.後者は世界観を含むが,それはもはや普遍的な妥当性を要求しえない(ランゲは歴史主義の背景のためか,普遍的美的妥当性という可能性は考えなかったようだ).批判的哲学とは経験科学の一種なのだから,端的に言えば,ランゲは哲学を経験科学と詩に解消してしまったということになる.これに対して,伝統的な哲学観を維持しようとしたのがコーエンとヴィンデルバントであった.

Written on February 14, 2017.
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Beiser, The genesis of Neo-Kantianism, Ch. 9.7--9.8

Frederick C. Beiser, The Genesis of Neo-Kantianism 1796–1880 (Oxford: Oxford University Press, 2014), Ch. 9.7–9.8

7. カント解釈

ランゲの自然主義的なカント解釈は,その方法論にまで及んでいる.これはフリース,ベネケ,ヘルムホルツらの生理学的・心理学的伝統に影響されたものだ.ランゲによれば,感覚器官の生理学とは修正されたカント主義に他ならない.カントの認識論は基本的に人間の生理と心理の経験的探究なのであり,経験の原因を探る一階の疑問を扱うのである.それは現代哲学の一般的傾向であるともランゲは考えていた.

アプリオリなものも物理的・生理的観点から理解される.アプリオリなものは,われわれの生理的・心理的構造における普遍かつ必然的な要素に存在する.もちろん,ミルが批判したように,その中には経験的に獲得されたものもあるだろうが,すべてではない.超越論哲学には,人間本性に内在するものと,慣習や経験に由来するものとを区別するという任務がある.このような自然主義的態度は,一方ではカントからの離反ももたらした.ランゲによれば,アプリオリの概念は,カントの直観と理性の形式を超えて拡張されるべきであり,また,経験の形式だけでなく経験の内容もアプリオリでありうるという.

ランゲはフリース,ベネケ,ヘルムホルツから影響を受けているとはいっても,それとは別に,自身で生理学的・心理学的カント解釈を採用する理由を見出していた.それは,カントの「超越論的」という用語が,物自体について思弁することをゆるしてしまっているのではないか,という疑念だった.だから,そのような超越論的なものを経験の領域に落とし込み,アプリオリなものを経験的探究の対象にしようとしたのである.

ランゲによれば,カント哲学でもっとも曖昧で難しい問題は,カントの方法である.カントは自分の方法についてまとめて論じることをしなかった.ランゲはそのポイントを,経験のアプリオリな条件を発見するためには経験的手法を使うことができ,それを証明するためにはアプリオリな方法を使うということだと見た.だから,ランゲにとって,せっかく自然科学的な思考法を導入したにもかかわらず,結局カントが合理主義的な方法に固執したのは誤りであった.

さて,ランゲが文句なしに生理学的・心理学的カント解釈の伝統に乗るかというと,そうとも言い切れないところがある.『論理学探究』には,経験の超越論的条件や,論理法則の起源について,心理学的解釈をはっきりと拒否しているような箇所があり,リープマンと同様,知識の条件として物自体が不可欠であることを認めているようなのだ.また,超越論的自我はすべての意識にある同一の存在であり,新しい世界への扉を開いてくれるという——ランゲ自身がその扉をくぐることはなかったが.

ランゲがカントの生理学的・心理学的解釈を重視する一方で,同時に,(コーエンとは違って)ヒュームの懐疑論への応答も重視したことはひとつの皮肉であった.カントは因果律に関するヒュームの懐疑論に応答するにあたって,合理的な方法に訴えざるを得なかった.そこで問題になっていたのは,因果律の発見(事実問題)ではなく正当化(権利問題)であったからだ.ランゲはわれわれの生理学的な機構に因果律が埋め込まれていることを示せばよいと考えたが,それではヒュームを(そしてカントを)納得させることはできなかっただろう.

8. 一元論の限界

『唯物論史』第二版で,ランゲは感覚や意識の説明という問題に立ち返ったが,そこでは彼の世界観と形而上学が展開されている.まず,彼はデュ・ボワ=レイモンの講演「自然認識の限界について」(1872年)を参照しながら,唯物論的な意識の説明は不可能だと論じている.さらに,デュ・ボワ=レイモンを擁護する中で,ランゲは自然的世界と精神的世界の区別を導入した.これら二つの世界は同じ人間や同じ活動によって占められているが,前者においては人間の活動には思考や感情が付与されず,後者においては人間の活動に思考や感情が与えられる.ランゲはこのような考えを,精神的あものと物理的なものは同一の事物の異なる属性であるというスピノザの説に引き付けている.

デュ・ボワ=レイモンは,物質に関する完全な理解が得られれば,現在の科学研究の限界が克服され,思考や感情も理解されるのではないかと推測したが[?],ランゲは逆に,精神に関する十分な理解によって自然世界に対する理解が得られるという可能性を指摘した.このとき観念論と唯物論とは,同じ事物に対する異なる説明様式に過ぎなくなる(そしてこのような方針はシェリングのそれに似ている).だが,ランゲはすぐにこの可能性を否定し,結局,唯物論的であろうと観念論的であろうと,一元論的な説明は不可能であるとの結論に達した.

ランゲはやはり自然主義的な方針が唯一可能なものであるとの姿勢を崩さなかった.ここで彼は精神科学(Geisteswissenschaften)をめぐる論争に言及している.これは後のドロイゼンとディルタイによるものではなく,ミルの道徳科学(これはドイツ語版ではGeisteswissenschaftenと訳された)に関するものである.ミルは,道徳科学における説明は自然科学における説明と原理的に同じであると主張し,ランゲはこれに同意した.ただし,内観にあまりにも信頼を置きすぎているとも注意してはいるが.

ランゲによる自然的世界と精神的世界の区別は,もっと言えば,理念と現実性の区別,価値と存在の区別である.そして,彼が唯物論の限界を見たのも,究極的にはこの区別を超えられないというところであった.真理の世界と価値(Werth)の世界は別のものであり,それぞれ自立している.心理学的探究によって価値の起源を知ることはできるかもしれないが,その目的や意味は,心理学では知ることができないのである.理念と価値はそれ自身として扱う必要がある.この点でランゲの所論は後の西南学派を予感させるものであった.

Written on February 14, 2017.
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