■Beiser, The genesis of Neo-Kantianism, Ch. 9.3--9.4
Frederick C. Beiser, The Genesis of Neo-Kantianism 1796–1880 (Oxford: Oxford University Press, 2014), Ch. 9.3–9.4
3. ある古典の起源と目的
ランゲの『唯物論史』は,ロッツェの『ミクロコスモス』やトレンデレンブルクの『論理学探究』と並ぶ,19世紀後半の哲学史における最重要著作であり,タイトルにある唯物論の歴史のみならず,世界観をも扱っている.また,歴史に意味付けするために哲学をし,哲学に具体的な姿を与えるために歴史をしているという点でも注目される.その主張は,唯物論は価値ある研究プログラムではあるが,形而上学としては維持できないというものであった.これは右派にも左派にも訴えかけるところがあり,ランゲの存命中に第2版,最終的には第10版(1974年)まで数えた.また,『唯物論史』の第二版(1873–75年)は初版(1866年)と比べて,唯物論論争に関する論考を加えて分量が倍になっているのみならず,初版にあった部分もほぼ書き直され,対象読者層も一般向けから学者向けになるなど,ほぼ別の本と言ってよい.ランゲがこのテーマに関わりだしたのは1857年,ボン大学の学生から唯物論の歴史について講義してほしいという要望を受けてからで,それ以来断続的に原稿を書き溜め,1864年1月に初版を出版すべく出版社と連絡を取った.また,胃癌を患い,余命の長くないことを知ったランゲは,1874年秋に第二版に向けて改訂作業を急ぎ,なんとかその完成を見ることができた.ランゲは1875年11月21日,47歳で死去した.
さて,なぜランゲは『唯物論史』を書いたのだろうか?本人の述べるところでは,唯物論論争,とくに科学と信仰の衝突が主要な動機であるようだ.また,この問題を論ずるときには,カントが決定的な役割を果たすが,カントを無批判に受け入れてもいけないとランゲは警告する.ランゲの目指す「単純な真理」とは理性と信仰の調停を目指すカントの戦略にある.真のカントとは,正統派のカント主義と実証主義的なカント主義のあいだにあり,科学の問題も宗教の問題もどちらも軽視してはならない.さらに,カントの戦略は,われわれの宗教と科学どちらをも救いうるため,唯物論と思弁的観念論の中間を行くものでもある.『唯物論史』が後の世代に訴えかけたのは,その公式の動機である科学と宗教の衝突を調停することではなく,むしろ,唯物論を受け入れることなく科学を承認すること,形而上学や神秘主義に陥ることなく信仰を担保することであった.こうした点で,ランゲの『唯物論史』は,ラインホルトの『カント哲学についての書簡』と似たところがあるし,ランゲは第二版の序文で,自分がカント哲学の復興のために果たした役割に満足していると述べている.
ランゲの『唯物論史』には社会的・政治的な目的があった,とする向きもある.ランゲは革命を志向していたと主張する者もいれば,ランゲが述べているのは革命に対する警戒であると主張する者もいる.しかしどちらの解釈も問題がある.まず,ランゲがはじめて社会主義的なアジェンダを展開するのは1863年になってからであり,この時までに『唯物論史』初版の執筆はおおかた終わっていた.また,貧困という社会問題に立ち向かうには,唯物論の歴史を書くことはあまりにも迂遠であろう(実際,ランゲは別途『労働者問題』や『社会問題についてのミルの見解』を書いている).
しかし,だからと言って『唯物論史』に社会的・政治的な次元が含まれないということにはならない.1848年革命の当時,唯物論者は左派,観念論者は右派と,明確な政治的スタンスがあった.ランゲ自身は,唯物論者は進歩的であるとは認めつつもあまりにもエゴイスティックであり,また観念論者は理念のための犠牲や愛という優れた側面を持ってはいるが,その形而上学も方法論も受け入れることはできないと考えた.両者のイイトコドリをしようとしたのが『唯物論史』であると言える.また,ランゲはマルクスのように革命の歴史的必然性を信じてはいなかったが,資本主義に由来するさまざまな社会問題を解決するために,根本的な社会的・政治的・経済的変化が必要であると考えていたことは確かである.だがそれは革命のような流血を伴う極端な手段ではなく,注意深い,段階的な改革によって達成されるべきであり,そのためには人々の精神的成熟が必要であるとランゲは考えていた.だから,ランゲは「革命のおそれ」から『唯物論史』を書いたという方が正確だろう.何よりも人々のために道徳や美的・文化的理念が守られなければならない.このような態度はドイツの人文主義に沿う.
4. 隠れた唯物論者
ランゲの『唯物論史』はまずもって唯物論批判として登場し,評価された.しかし『唯物論史』はまた唯物論擁護の本でもあり,実際,ランゲは世界の科学的説明という唯物論の基本プログラムを共有していたし,その基本線である経験主義,唯名論,機械論の立場を展開しようともしている.
ランゲが唯物論を擁護するのは,ひとつには,それが権威や宗教的迷信からの解放をもたらしてくれるからである.唯物論者は,迷信からくる恐れが宗教を支えていると判断し,自然科学によって迷信を打破し,宗教と打ち倒そうと試みた.ランゲは,宗教それ自身については触れないが,迷信を打ち破ることについては唯物論者を支持したのである.こうしたプログラムのモデルは,アルノルトの『非党派的教会・異端史』(1729年)であった.アルノルトは,真のキリスト者とは異端であり,彼らを迫害から守らねばならないと訴えたが,ランゲは同じことが唯物論者にも言えると考えたのである.
『唯物論史』の第一編は,紀元前5世紀のデモクリトスから18世紀のラ・メトリとホルバッハに至るまでの歴史である.その基調は,哲学が洗練されればされるほどに,それは唯物論に近づくというものだ.ランゲは語る.唯物論の歴史をたどることはきわめて重要である.というのは,現代の唯物論者は歴史を知らず,自分たちの見解が自然科学から生まれたものだと思い込んでいる.反唯物論者も歴史を知らず,唯物論が哲学であることを認めない.どちらにとっても,まず唯物論の歴史を知ることが必要である.そうすれば,唯物論が長い歴史を持つ哲学の一形態であることが分かるだろう.このようなランゲの見解は,「唯物論は哲学とともに古く,しかしそれより古くはない」という,『唯物論史』の書き出しに認められる.
ランゲによれば,唯物論には生気論的なもの,汎神論的なもの,物活論的なものがあるが,もっとも純粋で首尾一貫しているのは原子論的な唯物論であり,その主唱者はデモクリトスである.ランゲはデモクリトスをきわめて高く評価する一方で,ソクラテス,プラトン,アリストテレスに対しては批判的である.ランゲはまず,デモクリトスの原子論的唯物論の利点を,目的論や擬人的要素を排除しているところにあると見る.ソクラテスはこれに対し,目的論的な見方を復活させてしまったが,これは退行に他ならない.また,ソクラテス=プラトンの伝統は普遍が存在することを認めるが,言葉の意味の根本とは精神にしか存在しないのだからこれはまったくの幻想である.だが,ソクラテスとプラトンの哲学がアリストテレスによって継承され,それが中世世界を支配してしまった.これは自然科学の発展にとってまことに不幸なことであった.
ランゲは近代における自然科学の再興をベーコンとデカルトに求める.彼らは唯物論には反対したものの,唯物論的傾向にしたがって自然科学を復活させた.だから,ランゲによれば,ベーコンは近代唯物論の父と呼ぶべきである.他方で,プラトン主義的な要素が科学の発展を駆動する一要因となったことも否定はできない.唯物論が科学の発展において果たした役割とは,有用性や宗教的意味にとらわれずに,自然現象それ自体を考察することを要請するような,確かな方法論に基づいた思考法を発展させたことである.
だがランゲは唯物論を称揚するばかりではなく,その難点をも指摘する.まず,唯物論では,いかにして自然法則にしたがって意識や思考が説明されるのかが明らかではない.物質的粒子の運動からいかにしてわれわれの感覚するさまざまな質が生まれるのだろうか?物質と意識のあいだの橋渡しが存在するとは思えない.また,唯物論は,道徳や宗教,形而上学の問題をあまりにも軽視し過ぎる.確かに自然界における目的や知性といった概念は擬人的だが,それでもそれらは「美的な正当化」を有するのである.ランゲが「美的な正当化」という言葉で何を指していたのかは不透明だが,それはわれわれによって作り出される「詩的な価値」を与えるものであるようだ.われわれが客観的真理とはまったく異なる理念や規範といった基準によって道徳や美を判断していることをランゲは主張している.