■Beiser, The genesis of Neo-Kantianism, Ch. 9.5--9.6

Frederick C. Beiser, The Genesis of Neo-Kantianism 1796–1880 (Oxford: Oxford University Press, 2014), Ch. 9.5–9.6

5. 唯物論のカント的批判

『唯物論史』においては,特にその第二版においては,ランゲはカントを非常に重視している.ランゲによればカント哲学は「終わりの始まり,悲劇のカタストロフィー」であり,カント以後の唯物論はカントを乗り越えられていないのである.

ランゲがカント哲学のなかで重視するのは,その理論理性に関する批判である.カントは唯物論に二つの難題を突き付けた.ひとつは,唯物論の素朴な実在論である.カントは感覚されるものがすべてわれわれの知覚や認知の仕組みに依存していることを明らかにしたし,また最近の感覚生理学によれば,われわれの知覚は神経系の構造に制約されている.もうひとつの難点は,因果的必然性である.カントはヒュームの懐疑論を引きながら,因果性は物自体ではなく認知の仕組みのなかにあると説いた.これらはカントが独断論的と評したものであり,唯物論者はまさに自身が独断論に陥っている.カントの批判哲学は,われわれの世界についての思考法が主観的な起源を持つことを明らかにしてくれる.

ランゲによれば,唯物論者は原子の存在を素朴に信じていることでも誤っている.ランゲにとって原子は,データを説明するための構成物に過ぎない.たしかにドルトンやゲイ-リュサックらの原子論はきわめて直観的である.しかし,直観的であることは,それが現実にあることを意味しない.そもそも,最近の物理学・化学によれば,原子は力の中心とみなされており,ますます非直観的になっている.また,力とは,物理学者が現象を記述し,予言するときに使う数学的な式を擬人化したものい過ぎない.

カントは唯物論を批判した.しかし,他方で,カントには唯物論的な側面も見える.ランゲによれば,カントは唯物論と対立しているのではなく,むしろ唯物論にきわめて近い.唯物論は批判哲学に至るための不可欠な段階であり,その的はむしろプラトン的な観念論であると言える.ランゲの見立てでは,批判哲学は唯物論の長所(経験的,機械論的,唯名論的)を保ちながら短所(独断論的)を克服した立場であり,批判的唯物論あるいは現象論的唯物論と呼べる.

6. ランゲと物自体

ランゲは,カントの批判哲学と唯物論を親和的なものとみなしていたが,ここでひとつ重大な問題が現れる.物自体である.物自体は,自然主義的な説明に制限を設けるために導入されるからだ.ランゲは結局,物自体という概念に対して最終的な解決を与えることができなかった.

『唯物論史』初版では,ランゲは物自体の存在を擁護しようとしていた.物自体はわれわれの持つ因果性の世界の限界を超えているとはいっても,われわれは経験すべてを集めることによってその外側にあるものの存在を推論することができる,というのである.だがここには問題がある.このような推論によって保証される物自体は,結局のところ因果性というカテゴリーによってのみ保証される現象にすぎないのであり,そうすると現象と物自体という区別はすべて現象界の内側に落ちてしまうのである.だから,われわれの認知能力を調べると,異なる認知能力を持つ生物は異なる現象界を持つことになる.

『唯物論史』第二版では,ランゲはむしろ物自体を排除しようとしている.もしわれわれの知識がすべて可能な経験の枠内に限定されているのだとしたら,物自体という超越論的な対象が存在するなどとは言えないはずなのだ——このような対象に対する言明は,カントの方針に反する.しかし,ランゲは徹底的に物自体を排除することには成功しなかった.『唯物論史』第二版には,物自体の存在を前提している箇所が随所にあるのだ.たとえば最終章には,われわれの認識する表象が,われわれの外部の何かに由来するという言明が見える.また,われわれの事物の認識の仕方が,唯一の認識の仕方というわけではなく,認識主体に応じて多様な認識の仕方がある.このようにしてランゲは物自体を再発見したのであった.これはリープマンと同様である.

Written on February 9, 2017.