教科書の書き手としてのプランク——Hoffmann 2013

Dieter Hoffmann, “Max Planck as Textbook Author,” Research and Pedagogy: A History of Quantum Physics Through its Textbooks, ed. M. Badino and J. Navarro (Berlin: Edition Open Access, 2013), Ch. 3.

量子論形成期における最前線の研究と教科書のあいだの相互作用を調べた論集の一論考.この論考では,プランクが書いた教科書の特徴を調べる.

『熱力学講義』(初版1897年)は教科書として書かれてはいるが,それまでの研究のサマリーといった感を残す.面白いことに,プランクの本の中でもっとも多くの版を重ねたのがこの本であった(生前までに9版,死後に11版まで).

『熱輻射論講義』(初版1906年[邦訳1975年])は放射の理論を包括的に論じており,『熱力学講義』よりも教科書としての性格を強く備えていた.『熱輻射論講義』は大きな成功を収め,おそらくそれゆえにヒルツェル社はゾンマーフェルトとの共著で理論物理学の教科書を書かないかとの要請をプランクに送った(これは実現しなかったが).また,『熱輻射論講義』はプランクの生前に5版(死後に6版)まで数えたが,版ごとに当時の量子論の状況を踏まえた改訂がなされている.第2版(1912年)では量子仮説を初版よりも直接的に扱い,それを古典的な動力学と可能な限り両立させようとしていわゆる第二理論を展開したが,量子論の発展に伴い,そのような記述は第4版(1921年)・第5版(1923年)では消えた.そのかわりにプランクは,ネルンストの熱定理や固体の比熱への量子仮説の応用,ボーアの原子モデル,シュテルン・ゲルラッハの実験に(簡単ではあるが)言及している.

『理論物理学汎論』(全5巻,1916〜30年[邦訳1926〜32年])は,プランクのベルリン大学での理論物理学講義に端を発する長年のプロジェクトを完成させたものだ.プランクの講義は力学から光学までの古典物理学を包括する5セメスターの講義であったが,講義では電磁気学・光学が最後に来るのに対し,『理論物理学汎論』では熱力学が最後に配置された.『理論物理学汎論』第5巻(1930年[邦訳1932年])第2部は,熱放射と量子論の関係を扱ってはいるが,具体的な応用についてはスペースの関係で落とされている.この箇所は『熱輻射論講義』と相補的だとプランクは述べている.

1909年にコロンビア大学で行った講演をまとめた『理論物理学八講』(1910年)も教科書とみなしうる.プランクの講演は,1905年に開始されたドイツ・アメリカ間の交換教授プログラムにより実現された.ヴィルヘルム・ヴィーンに宛てた書簡でその頃の様子を報告し,またアドヴァイスを送っている.プランクの目的は,当時の理論物理学全体の状況を素描し,自身の物理学に関する見解を伝え,またその原理を分かりやすくすることであった.前半部では熱力学的世界観と呼びうるものを展開しており,その後量子論と相対論を扱った.

一見したところ,プランクが『理論物理学八講』の中で,自身の量子仮説にあまり中心的な役割を与えていないのは奇妙に思えるかもしれない(同プログラムによる4年後のヴィーンの講演ではこの点に十分な注意が払われることとなるが).プランクを教科書の書き手として考えると,量子論そのものについての本を書かず,また講義もしなかったことは注目すべきだ.プランクは量子論をもっぱら熱放射の枠組みの中で論じたが,それは彼の保守的な態度の反映でもあった.

Written on February 27, 2018.
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アメリカと化学への熱力学の移入——Dais (2018, in press)

Photis Dais, “The double transfer of thermodynamics: From physics to chemistry and from Europe to America,” Studies in History and Philosophy of Science (2018, in press).

知識の移転に関する特集号の一論考.化学への熱力学の導入と,ヨーロッパからアメリカへの熱力学の導入がいかにして生じたかを検討する.19世紀,物理学と化学のあいだには深い溝があった.その当時主流を占めていた有機化学の研究プログラムからすれば,物理学で用いられる洗練された数学的テクニックは不要であった.1880年代から,イオン主義者(ファント・ホッフ,アレーニウス,オストヴァルト)の登場により状況が変化する.彼らは(有機)化学の諸概念を物理化学の枠内で説明することに意を用いた.他方で,物理学者たち(デュエム,プランク,ネルンストら)も化学的問題にアプローチして成果を得ていたが,化学的な含意の乏しさや数学的な困難のせいで,化学者の注意を引かなかった.

ライプツィヒ大学でオストヴァルトは多くのアメリカ人留学生を育てた.オストヴァルトが実際にしていたことは,内容からすれば,物理化学と言うよりも化学熱力学と称するほうが適切であろうが,留学生たちはアメリカに帰った後,自分たちの専門分野を物理化学と称した.それはオストヴァルトに従ったからでもあり,またアメリカの大学において,有機化学などと対抗する地位を自分たちのために確保するためでもあった.

アメリカ人たちはオストヴァルトから学んだことを,自分たちの関心に沿うかたちで活用して新しい問題に挑戦した.たとえばイオン主義者たちは,濃厚溶液と強電解質がうまく扱えないことを自覚しつつ,何もしなかった.これに対し,アメリカの化学者たちは,理想状態から離れた状態に熱力学を適用しようとした.その典型例がギルバート・ルイスである.ルイスはイオン主義者の伝統とギブス,ヘルムホルツ,デュエムらの物理学の伝統を踏まえてその中間の道を行き,濃厚溶液や強電解質がどれほど理想状態から離れているかを記述するためにフガシティー(逃散能;1900,1907)や活量(1907)といった概念を導入したのだった.ルイスはまた,論文では比較的長い導入を書いたが,それは彼の歴史的な意識を示すものでもあった.

物理学から化学へ,そしてヨーロッパからアメリカヘ,という熱力学の二重の移入には,確立したアイディアを化学者の需要のために活用するという共通の特性があった[この共通点を指摘するだけではこの二つの移転の過程を同時に扱うことの理由としては弱いと思われる.そしてこのような弱い結論しか出てこないのは,それが分野間の知識の移転と,地理的な知識の移転という二つの異なる次元の知識移転を同時に扱っているからだと思われる].この過程においては批判や抵抗,偏見もあったが,最終的には化学熱力学,そして物理化学という新しい分野を生み出すことになった.

Written on February 16, 2018.
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シュレーディンガー方程式への第一歩——Mehra and Rechenberg 1987

J. Mehra and H. Rechenberg, The Historical Development of Quantum Theory, Vol. 5 (New York: Springer, 1987), Ch. III.2

量子論の歴史を包括的に記述したMehraとRechenbergの大著 The Historical Development of Quantum Theory の第5巻は,シュレーディンガーの波動力学に関するものである.ここでは,1926年1月の波動力学論文直前の動向を追う.公刊物や残された証拠から,1925年末にシュレーディンガーがもっとも強い関心を持ち,精力をかたむけたのが,水素原子の問題ではなく理想気体の統計力学・量子論だったことは明らかである.

1925年10月には,シュレーディンガーは次の学期のためにスペクトル線についての講義を準備していた.その中では,原子構造に特に力点が置かれていた.このノートの中に波動力学や物質波を思わせる要素はないが,この機会にハミルトン=ヤコビの多周期系の理論に習熟したことは後に役立ったろう.

同年11月3日付けのアインシュタイン宛書簡に,ド・ブローイの論文を読み,それによってアインシュタインの量子理想気体のゆらぎに関する議論(1925)を理解したとシュレーディンガーは書いている.アインシュタインによれば,量子理想気体に関するゆらぎの式は,黒体放射に関するゆらぎの式と類比的であり,ド・ブローイの物質波の概念を適用するための鍵もここにある.この議論は,シュレーディンガーにとってはギブスのパラドックスを解決してくれるように見えたし,ボーア=ゾンマーフェルトの量子化条件の幾何学的解釈を与えてくれるという点でも重要だった.

デバイの証言によれば,おそらく1925年11月後半から12月前半にかけてのどこかのコロキウムで,シュレーディンガーはド・ブローイの研究について発表した.このことはブロッホの証言とも整合的だ.そしてこのときデバイ(ゾンマーフェルトの弟子であり,数理的手法を重視した)は波動方程式の適用を示唆したという.デバイとブロッホの証言の裏付けは取れないが,波動方程式の適用に向かってシュレーディンガーが動き出したこと,そしてそこに自分の独自性を見出していたことは確かである.

この時期(おそらく11月16日以降)に書かれたであろう「水素原子.固有振動」という3ページのノートがある.この中でシュレーディンガーは,水素原子の相対論的波動方程式を導いた.ド・ブローイは電子の位相波の共鳴の問題として水素原子を捉えていたが,シュレーディンガーは電子の位相波を記述するために波動方程式を適用した.だが,そこから導かれる水素の微細構造が実験と合わなかった.ここで,実験と合うからといって,非相対論的な方程式で満足するわけにはいかなかった.というのも,ド・ブローイの物質波は,シュレーディンガーにとっては相対論的概念だったからだ.ここで彼は気体論の研究に向かい,若干の中断が入った.非相対論的理論に切り替え,波動力学の第一論文を書くのに取り組んだのは,おそらく1925年12月の終わりごろであったろう.

1925年末のシュレーディンガーは,色彩論についての論文(12月17日),「単原子分子の理想気体のエネルギー準位」(12月初旬),「アインシュタインの気体論について」(12月15日)という3本の論文を執筆した.このうち「アインシュタインの気体論について」は,普通の統計(ボルツマン統計)は保ったままで,物質やエネルギー量の概念を変更することでアインシュタインの結果を再現しようという試みであり,この文脈ではじめてシュレーディンガーはド・ブローイの位相波の概念を明示的に使用した.彼はまず体積V中のN個の同種気体分子について,所与の離散的なエネルギー・スペクトルに関して状態和を計算し,通常の統計を用いてアインシュタインの結果を再現した.次に,離散的なエネルギー状態の表現を,位相波の概念を使って導出した.

ここでシュレーディンガーはダーウィン=ファウラーの方法(1922)を適用した.ダーウィンとファウラーは,系の構成要素のあいだのエネルギーの分配を定めるために,分配関数を用いた数学的に優雅な手法を作り出していた.シュレーディンガーはこの方法を早くから検討し,未公刊草稿でそれをいくらか洗練させていることから,この方法に通じていた.「アインシュタインの気体論について」で彼は,通常の統計によりつつ,ダーウィン=ファウラーの方法を通じて統計的平均やゆらぎについてのアインシュタインの結果を再現したのだった.

シュレーディンガーは,気体論にド・ブローイの位相波を持ち込むことの含意をいくらか考察した.彼は粒子系のエネルギー状態を決定するために,分子の固有振動を考察した.ここで,固有振動の大きさに応じて極限を取ることにより,気体に関する結果と放射に関する結果が出てくる.このようなことが可能なのは,位相波の分散に起因する.ただしシュレーディンガーの理論では凝縮が起こらないという点で,アインシュタインとの違いもある(しかし当時は凝縮は観測されていなかったので,シュレーディンガーは問題視しなかった).またシュレーディンガーは,場の中の特異点として粒子を解釈するという道筋も示した.これは波動力学の物質観を予感させるものである.

1925年11月中旬以降には,気体論と水素原子の方程式という二つの研究が進展した.いったん相対論的な水素の波動方程式の試みが挫折した後に理想気体の量子論の研究が挟まり,その後に非相対論的な水素の波動方程式に移った,と推測される.1925年12月,クリスマス休暇中のシュレーディンガーには,研究に没頭するだけの時間があった.

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Written on February 5, 2018.
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1924年から25年のシュレーディンガー・プランク・アインシュタイン——Mehra and Rechenberg 1987

J. Mehra and H. Rechenberg, The Historical Development of Quantum Theory, Vol. 5 (New York: Springer, 1987), Ch. III.I

量子論の歴史を包括的に記述したMehraとRechenbergの大著 The Historical Development of Quantum Theory の第5巻は,シュレーディンガーの波動力学に関するものである.この記事では,シュレーディンガーの波動力学の誕生に至る直前までの,プランクとアインシュタインとの意見交換についてまとめる.

1924年9月21日から27日にかけて,インスブルックでドイツ自然科学者・医学者協会が開催された.プログラム委員はシュヴァイトラーで,ドイツ物理学会との共催だった.量子論関係では,ゾンマーフェルト(量子論とボーアの原子模型の基礎),クラッツァー(分子の性質とバンド・スペクトル),ヴァールブルク(光化学における量子則),フランク(原子と分子の衝突およびそれらの化学的意味)などが講演し,さらにボルン(動力学的問題としての化学結合),エーヴァルト(固体の構造),ファヤン(化学結合の性質と原子構造),フュルト(導体の誘電率),ゲルラッハ(原子の磁気モーメントと方向量子化についての実験),そしてプランク(ボーアの原子モデルの量子統計)が続いた.

プランクは水素原子からなる気体に関して,適切な状態和の定義を論じた.量子論にしたがって素直に状態和を計算し,そこにボーアの計算によるエネルギー値を代入すると,状態和が発散してしまう(この難点はボーアは1916年に既に指摘していた).プランクはこの難点を,状態和を電子が自由になっている場合の項と束縛されている場合の項とに分割することで乗り越えようとした.ここでプランクは,同種粒子を扱うため,N!の割り算を用いた.シュレーディンガーはこの議論を注意深く追い,翌年に立ち戻ることになった.

アインシュタイン=ボース統計に関する議論も背景として重要である.BKS理論(光量子仮説を避け,保存則を破る)との関係において光量子論をめぐる議論が活発になっていたが,シュレーディンガーは1920年頃から光量子仮説についての研究を行っていた.アインシュタインは1924年,ボース論文(光量子仮説からプランクの放射則を導出)を受け取ると,ただちに量子理想気体の理論へと応用し,粒子の統計的独立性,気体の縮退,ギブスのパラドックスなどについて重大な含意を引き出した.プランクはギブスのパラドックスに関して論考を残している(1922年)し,ミュンヘン大学での講義では,エントロピーの定義も含めた理想気体の量子論を扱った(1924年〜25年).

インスブルックでの成果は大きかったが,シュレーディンガーはおそらく講義負担のために,研究に時間を割くことができなかった.水素分子の比熱についての論文がわずかに1本出たのみである(そこでは「プランクの状態和」を用いていることから,プランクの影響がうかがわれる).しかし,1924–25年の冬学期の講義で,シュレーディンガーは量子統計を扱っていたようで,また学期が終わるとただちに研究を再開した.1925年2月,アインシュタインとの文通を開始し,縮退について議論した.アインシュタインは,粒子のあいだの独立性が保たれないこと,さらにボルツマン統計では,ネルンストの熱定理が破れるか,あるいはエントロピーの示量性が破れることを示唆した.

シュレーディンガーは「理想気体における統計的なエントロピー定義についての注意」(1925)において,同種粒子の適切な計数法について研究するとともに,4種類のエントロピー定義を比較した.プランクの定義では,ネルンストの熱定理に反し,また零点における負のエントロピーを再現できない[?].そこで最終的には,所与の全エネルギーEにおけるすべての[分子的状態の?]順列の数の対数(にボルツマン定数をかけたもの)をエントロピーの定義とするべきという.

プランクは「エントロピーの統計的定義について」(1925)でシュレーディンガーに応答し,シュレーディンガーの四つの定義のどれとも一致しない定義を提案した(S = k \log P,Pは所与のエネルギーを持つ系が取ることのできる定常状態の数).プランクは確率に関する直接的考察を避け,エントロピーの計算を量子化の問題に還元した.エントロピーの計算を直接に行い,系を構成する分子に関する考察(これは分子どうしの相互作用を考慮しないといけないかもしれない)は不要だという.この新しい定義について,プランクは続く「エントロピーの新しい統計的定義」(1925)において,アインシュタインの新しい統計をも含みうるその一般性を強調した.

プランクはボルツマン=ギブス統計からの逸脱の可能性を示唆していたが,シュレーディンガーはこのアイディアを気体全体に適用するのは不可能ではないかと見ていた.しかし,1926年1月7日に発表された「単原子分子理想気体モデルのエネルギー状態」の中では考えを変えている.1925年9月26日付の書簡で,アインシュタインはシュレーディンガーに,プランクのアイディアが興味深いことを述べており,N個の同種分子からなる気体の量子状態のエネルギーがn^{3/2 N}に比例することを計算している(アインシュタイン自身はこの結果を好まなかったが).これをもとにシュレーディンガーは計算を続け,量子理想気体の状態方程式を導出した(11月5日).いくつかの修正を経て,12月4日にはシュレーディンガーがアインシュタインに論文を送り,翌年1月7日にアインシュタインはそれをプロイセン科学アカデミーの会合で発表した(紀要に印刷されたのは2月11日).その理想気体のエネルギー状態に関する議論では,縮退および擬エルゴード仮説による位相空間の取り扱いに注意した後,量子化されたエネルギー状態を計算し,それを状態和に代入して特性関数を計算して,高温と低温それぞれについて気体の性質を論じた.

シュレーディンガーにとって以上の成果は,理想気体という非現実的な仮定を含んでいたために,現実の単原子分子気体を現しているとは思われなかった.シュレーディンガーの理論はプランクのものにもアインシュタインのものにも与していなかったが,ともかく高温かつ密度がそれほど高くない気体全体に関して,プランクのエントロピー定義を使うことでその量子化されたエネルギー状態を計算することができた.だから,シュレーディンガーはプランクの定義を賞賛し,それを古典論におけるギブスの定義と関連づけているが,同時に等確率状態の設定の仕方に疑問を呈してもいる(アインシュタイン宛書簡,1926年1月21日).この点でシュレーディンガーは,プラグマティックな結果を出すアインシュタイン寄りでもあったが,その量子論的な証明を要求するという意味ではプランク寄りであった.これは間も無く果たされるのだが,そのときに必要になったのはド・ブローイの物質波の概念であった.アインシュタインの論文を通じてそれを知ったシュレーディンガーは,1925年11月初旬にド・ブローイの博士論文を入手して検討し,気体論に適用した.

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Written on February 1, 2018.
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シュレーディンガーの波動力学の起源について——Mehra and Rechenberg 1987

J. Mehra and H. Rechenberg, The Historical Development of Quantum Theory, Vol. 5 (New York: Springer, 1987), Ch. III, Introduction.

量子論の歴史を包括的に記述したMehraとRechenbergの大著 The Historical Development of Quantum Theory の第5巻は,シュレーディンガーの波動力学に関するものである.この記事では,シュレーディンガーの波動力学の起源について論じた章の冒頭部をまとめる.

1925年後半から1926年初頭にかけての波動力学前夜の事情は,書簡やノートなどの利用可能な証拠が少ないこと,また証言のあいだに一見したところ食い違いがあるように見えることから,不明点が数多い.たとえばディラックの回想によれば,シュレーディンガーは最初水素の相対論的な波動方程式を書こうとして失敗し,数ヶ月後になってはじめて非相対論的な波動方程式に向かったことになっているが,1925年から26年冬よりも前の公刊物の中には,原子中の電子波を相対論的に扱おうとしていた痕跡はない.また,1925年11月上旬よりも前には,シュレーディンガーはド・ブローイの物質波を詳しく検討していなかったようだが,すると翌年1月に非相対論的波動力学の論文を提出するまでに2ヶ月半しかなかったことになる.これはディラックの証言と矛盾する.

アインシュタインへの書簡(1925年11月3日付)でシュレーディンガーが語っているところでは,ド・ブローイの物質波に興味を持つようになったのは,それが理想気体の量子論と関連を持つからだ.事実,彼は同年12月15日に「アインシュタインの気体論について」という論文を提出して,ド・ブローイのアイディアを使って理想気体のエネルギー状態を考えている.量子統計への関心は「単原子分子理想気体モデルのエネルギー状態について」(1926年1月7日発表)にも明らかだ.しかしこのことは(数ヶ月というのは嘘にしても)しばらくの間波動方程式のことを置いておいたということを説明するかもしれない.11月に何らかの相対論的波動方程式を考えたが経験と合わないためにしばらく留保し,量子統計に取り組み,その後12月半ば以降に水素原子の問題に戻った,という順番だ.

波動力学の起源に関して問うべき問題は,第一論文(1926年1月27日;Annalen der Physik の3月13日号掲載)と第二論文(1926年2月23日;同誌4月6日号掲載)のあいだの時間的な順序と論理的な順序の問題と,どの程度それがド・ブローイの物質波の概念の論理的な適用であったのかどうか,ということだ.この章では,波動力学の形成を3段階に分けて論じる.まず,1925年後半に,シュレーディンガーは同種粒子の量子統計(アインシュタインの統計)についてより満足のいく理論を得るべく努力し,プランクおよびアインシュタインと活発に意見を交換した.次に,アインシュタインを通じてド・ブローイの物質波を知り,それを以前の振動系に関する考察と結びつけるとともに,原子構造論を新しい基礎のもとに論じる着想を得た.最後に,ハミルトンの方法(シュレーディンガーは1910年代後半に別の文脈でこれを検討している)に習熟してそれを原子系へと適用した.

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Written on January 31, 2018.
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