心理学の教科書の正確性——Steuer and Ham II 2008

Faye B. Steuer and K. Whitfield Ham, II, “Psychology Textbooks: Examining Their Accuracy,” Teaching of Psychology, 35 (2008): 160–168.

教科書が将来世代たる学生の訓練のために重要であることは疑いえない.また,商業的にも無視できない規模のマーケットを持っている.だが一方で,教科書はしばしば単純さを優先して正確性を犠牲にしているなどと批判される.講師が教科書を選定する際にはさまざまな観点から評価することが必要となるが,これは時間の問題から実現することが難しい.このため,出版社からの情報や教科書そのものに対する検討,また書評などがあるが,ここでは心理学の教科書をサンプリングし,参照されている文献と比較してその正確性を調べた.教科書の誤りは,その著者が「帰納的」(一次文献に基づいてストーリーを組み立てる方法)ではなく「演繹的」(ストーリーを先に作ってあとからそれを支持する文献を参照する方法)なアプローチを取る場合により多く発生し,後者の場合には,参照されている文献が内容にまったく関係ない場合もしばしばある.だが,著者は頻繁な改訂(心理学のコースの教科書の場合,おおむね3年ごと)にかかる時間の制約上,「演繹的」アプローチを取るように圧力をかけられることにも留意すべきである.この論文で示した正確性を調べる方法は,限られた時間で教科書を選定しなくてはならない講師にとっても重要だろう.また,教科書の正確性を調べることは,当該分野(心理学)のためにもなる.

Written on January 23, 2019.
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教科書のSSK——Myers 1992

Gregory A. Myers, “Textbooks and the Sociology of Scientific Knowledge,” English for Specific Purposes, 11 (1992): 3–17.

自然科学の世界では,教科書を読んだからといって物理学者になれるわけではないし,また教科書を書いたからといって業績評価されるとも限らない.それでは教科書というのは何なのか.この論文では,科学者の誕生と,事実の誕生という二つの線に沿って,教科書についての科学的知識の社会学(SSK)の議論を紹介する.

クーンは「科学研究におけるドグマ」(1963)の中で,教科書そのものだけでなく,その使われ方が自然科学を他の学問とは異なるものとすると論じた.たとえば自然科学では,教科書を読む学生はほとんど研究の前線とは接点を持たない(人文学や社会科学ではより近い関係にある).同じ分野について複数の教科書がある場合でも,そのあいだの違いは実質的なものではない.また,教科書は学生をひとつのパラダイムに染め上げてしまい,他の方法では考えられなくしてしまうという(そもそもパラダイムをもっとも顕著に象徴するのが教科書である).だが,DNA研究をしていたワトソンの事例が示しているのは,教科書を疑えるようになってはじめて一人前の科学者だということだ.もし科学者が教科書を参照しているのならば,それは自分の立つ(疑わしい)前提を明文化しているのだとも言える.

教科書は科学的事実の終着点と考えられる.科学的事実の社会的形成にあたって重要なのは,ドイツ語から英訳されてようやく知られるようになったフレック『科学的事実の起源と発展』(1935/英訳1979)だ.フレックは科学をjournal science, vademecum science, textbook science, popular scienceに分類した.残念ながら教科書についてはあまり書いていないが,ハンドブック(vademecum)については,科学的知識は雑誌論文というもっとも個性のあふれる媒体から,ハンドブックという,いくらかの統制された,基本的な概念や問題設定の仕方を定める媒体へと移ることを論じている.総説論文なども同じような役割を果たすが,当該分野に入ることを志す者が必ず読むという点ではハンドブックはより重要である.同様に,ザイマンも,研究論文から教科書に至る科学的事実の展開を「結晶化」という比喩で論じた.その重要な主張は,教科書を書くことは,実験機器を操るのと同じ程度に,科学研究の一部をなすのだということだ.その他,(周辺の文脈も含めた)文献参照の関係や,ラトゥールなどの言う五つの文型を用いて教科書と研究論文の違いを分析することもできる.

教科書と研究論文のあいだにはさまざまな違いがある.たとえば非人称主語の使用(研究論文ではしばしば we などを使うことで主要な主張がなされる),時制の違い(研究論文では特定の実験に言及するので過去形を使うが,教科書は普遍的事実として言及するのでほとんど現在形である),様相の使用(研究論文では非常に多くの様相文が登場し,新発見はほとんど間違いなく様相がつく),接続詞の使用(研究論文は読者に専門知識を前提するので,接続詞をほとんど使わない),文献参照(教科書がどの程度の文献を参照するかはまちまちだが,研究論文は文献参照することによって自分の位置づけを明らかにする),図表の機能(研究論文では証明の道具だが,教科書ではあくまでも例示である)などである.

Written on January 22, 2019.
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科学史・科学哲学10の問題——Galison 2008

Peter Galison, “Ten Problems in History and Philosophy of Science,” Isis, 99 (2008): 111–124.

ほかの多くの分野同様,科学史・科学哲学(HPS)も誕生以来さまざまな変化を蒙ってきており,たとえば,科学史家は哲学的問題を避け,科学哲学者は歴史に対する興味を失った.ここでは,両者が協働しうる10個の問題を提案したい.

  1. 文脈(context)とは何か.また,文脈による説明にどの程度の説明力を認めるべきか.
  2. 純粋科学の純粋性(purity)とは何か.それは各分野ごとにどう異なるのか.基礎科学(fundamental science)との違いは何か.純粋科学の反対は何か.
  3. 19世紀から20世紀にかけての専門分野の分け方では捉え切れないような新しい分野が多く出現したが,それらのあいだをまたぐような概念がある.そうした概念に対する有効な議論の方法は何か?歴史的にはどうアプローチするか?
  4. 自然物と人工物の区別を問い直すこと.人工放射性元素や組み換え遺伝子の例.
  5. 上の問題は倫理学との関連からも興味深い.何をつくってもよいのか,どう分析するべきか.
  6. テクノロジーの政治学.たとえばテクノロジーの発展にともなうプライバシー概念の変遷など.
  7. 局所的なマイクロヒストリーでは典型性という概念は素朴には使えないが,にもかかわらずその事例研究は何か一般的なものの例示だと考えられている.それは何か.また,事例研究は何のためにあるのか.
  8. 上の局所的な探究からは見ることができない科学的実践や議論があるはずだ.それはどのようなものか,またそれはグローバルなのか.
  9. (a) 哲学的枠組みに縛られない歴史を書くことは本当に可能か(仮借なき歴史主義の可能性).(b) 歴史化されない歴史的説明の要素を見つけ出せるか.
  10. 政治が絡むところでの疑惑や論争とはそもそも何であるか.HPSが何をなせるか.
Written on January 21, 2019.
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歴史的対象としての科学教育——Olesko 2006

Kathryn M. Olesko, “Science Pedagogy as a Category of Historical Analysis,” Science & Education, 15 (2006): 863–880.

Science and Technology in the European Periphery というプロジェクトの成果として編まれた特集号への一寄稿.科学教育に対する歴史研究の重要性は,実は1930年代にはすでに認識されていた.その代表者がフレックであり,彼は経験,感覚,認知という歴史的分析の三つのカテゴリーと,出版など科学教育の文化的文脈を指摘していたのだった.フレックは教育の文化依存性を示し,共通の教育経験から生じる大きな思考の枠組み,すなわちthought collectiveを導入した.しかし,フレックの本が影響力を持つようになったのは1970年代になってからだった(クーンは,影響を自覚していなかったようだが,フレックの本を読んでことがある).ポラーニの暗黙知の議論(1958)も,科学教育のプロセスを神秘化することで成り立っていた——皮肉なことに,その後暗黙は科学の実践を理解するための中核的な概念となるのであるが.

1960年代に入ってようやく,科学と社会の関係を問う科学史研究が興隆してきた.教育の役割に関しては,クーン(1962),ラヴェッツ(1971),フーコー(1966,1975,1977)らの論考を挙げることができる.とくにフーコーはdisciplineの多義性を意図的に用いながら,専門分野が確立する過程における教育のはたらきを論じることに成功した.フーコーは「規範」の成立プロセスを軸に知識と社会的文脈の相互作用を指摘してみせたが,しかし理論物理学には社会的な影響を認めないといった態度を取っていた.

1970年代に入ると社会構成主義が流行するが,歴史研究においては,ハナウェイやパイエンソンの業績に言及しておくべきだ.前者はクーン的な教科書観を否定して,専門分野の確立に寄与するような媒体とみなした.後者はドイツの中等教育における数学教育の社会的・理念的重要性を指摘した.1980年代にも,教育と専門分野の確立,科学者共同体の形成,科学の社会的・文化的機能の関係を問う研究が続いた.ドイツの教育システムが事例としてよく調べられた.その一方で,20世紀が終わるころまでには,教育制度や専門分野の確立といった抽象的な次元から人間の活動やその地域的な文脈といった具体的なレベル(文化史)に関心が移っていった.

最近の科学教育に関する研究としては,ウォーリック(ケンブリッジ数学優等試験),カイザー(ファインマン・ダイアグラム)や,この特集号に収められている欧州周縁部における教科書についての研究などがある.

フレックがかつて指摘したように,教科書と出版は密接に結びついている.教科書は,これまで考えられてきたように19世紀ではなく,18世紀に成立したジャンルであるが,この点に関して,ハーバーマスの公共圏の概念が使える可能性がある.ハーバーマスによれば,公共圏は識字率の向上や出版文化の隆盛にともない18世紀に成立した.このことは,教科書の歴史に対していくらかの助けになるかもしれない.教科書は科学的言語の標準化を促進した.また,どのような内容の教科書が出版されるかは需要により大きく影響された(オスマン帝国では応用数学の教科書がよく出版されたが,それは商業的な需要があったからだった).

教科書の歴史を明らかにするためには,明文化されないさまざまな伝統に注意を払う必要があり,そこで機能している内的な価値体系を間接的に明らかにするためには理解 Verstehen のアプローチが考えられる.このようにして現代のさまざまな科学教育に関する問題にアプローチすることが可能になる.

Written on December 28, 2018.
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科学論研究における教科書の地位——Bensaude-Vincent 2006

Bernadette Bensaude-Vincent, “Textbooks on the Map of Science Studies,” Science & Education, 15 (2006): 667–670.

Science and Technology in the European Periphery というプロジェクトの成果として編まれた特集号への一寄稿.この特集号で扱われるのはすべての「周縁」である.それは地域に関してもそうだし,教科書という媒体に関してもそうだ.教科書を歴史的に扱うに際しては,教科書というジャンルの誕生や,その教育制度の発展との関係,経済的・社会的・政治的文脈の考慮,専門分野の形成(これについては,知識生産と知識伝達の区別が実証科学にとって本質的だというコントの考えが言及される),教科書は本当に,クーンの言うように,通常科学的な知識の集積に過ぎないのかという問題,そして読者層の違いを考慮する.それにより,われわれは科学技術史に対する脱中心化されたアプローチを取ることができる.

Written on December 25, 2018.
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