■教科書のSSK——Myers 1992

Gregory A. Myers, “Textbooks and the Sociology of Scientific Knowledge,” English for Specific Purposes, 11 (1992): 3–17.

自然科学の世界では,教科書を読んだからといって物理学者になれるわけではないし,また教科書を書いたからといって業績評価されるとも限らない.それでは教科書というのは何なのか.この論文では,科学者の誕生と,事実の誕生という二つの線に沿って,教科書についての科学的知識の社会学(SSK)の議論を紹介する.

クーンは「科学研究におけるドグマ」(1963)の中で,教科書そのものだけでなく,その使われ方が自然科学を他の学問とは異なるものとすると論じた.たとえば自然科学では,教科書を読む学生はほとんど研究の前線とは接点を持たない(人文学や社会科学ではより近い関係にある).同じ分野について複数の教科書がある場合でも,そのあいだの違いは実質的なものではない.また,教科書は学生をひとつのパラダイムに染め上げてしまい,他の方法では考えられなくしてしまうという(そもそもパラダイムをもっとも顕著に象徴するのが教科書である).だが,DNA研究をしていたワトソンの事例が示しているのは,教科書を疑えるようになってはじめて一人前の科学者だということだ.もし科学者が教科書を参照しているのならば,それは自分の立つ(疑わしい)前提を明文化しているのだとも言える.

教科書は科学的事実の終着点と考えられる.科学的事実の社会的形成にあたって重要なのは,ドイツ語から英訳されてようやく知られるようになったフレック『科学的事実の起源と発展』(1935/英訳1979)だ.フレックは科学をjournal science, vademecum science, textbook science, popular scienceに分類した.残念ながら教科書についてはあまり書いていないが,ハンドブック(vademecum)については,科学的知識は雑誌論文というもっとも個性のあふれる媒体から,ハンドブックという,いくらかの統制された,基本的な概念や問題設定の仕方を定める媒体へと移ることを論じている.総説論文なども同じような役割を果たすが,当該分野に入ることを志す者が必ず読むという点ではハンドブックはより重要である.同様に,ザイマンも,研究論文から教科書に至る科学的事実の展開を「結晶化」という比喩で論じた.その重要な主張は,教科書を書くことは,実験機器を操るのと同じ程度に,科学研究の一部をなすのだということだ.その他,(周辺の文脈も含めた)文献参照の関係や,ラトゥールなどの言う五つの文型を用いて教科書と研究論文の違いを分析することもできる.

教科書と研究論文のあいだにはさまざまな違いがある.たとえば非人称主語の使用(研究論文ではしばしば we などを使うことで主要な主張がなされる),時制の違い(研究論文では特定の実験に言及するので過去形を使うが,教科書は普遍的事実として言及するのでほとんど現在形である),様相の使用(研究論文では非常に多くの様相文が登場し,新発見はほとんど間違いなく様相がつく),接続詞の使用(研究論文は読者に専門知識を前提するので,接続詞をほとんど使わない),文献参照(教科書がどの程度の文献を参照するかはまちまちだが,研究論文は文献参照することによって自分の位置づけを明らかにする),図表の機能(研究論文では証明の道具だが,教科書ではあくまでも例示である)などである.

Written on January 22, 2019.