Frederick C. Beiser, The Genesis of Neo-Kantianism 1796–1880 (Oxford: Oxford University Press, 2014), Ch. 13.1–13.4.
1. ヴィンデルバントと新カント主義
コーエンによる認識論的な方向性は,ヴィンデルバントによっても推進された.彼らはフリースやヘルムホルツによるカント哲学の心理主義的な解釈に反対し,哲学の主たる問題は権利問題にあるとして超越論哲学を擁護した.彼らはカントの哲学を批判的観念論であると読んだ.ヴィンデルバントとコーエンの見解は,1880年代から90年代にかけての主流となった.
これだけ類似した見解を持っていたにもかかわらず,コーエンとヴィンデルバントは直接会ったことはないようだ.ある論文の中でヴィンデルバントはコーエンに対して,反心理主義であることや,カント哲学の論理的側面の強調は評価しているものの,コーエンのカント注解や,カント的な学問観に対しては批判を行っている.コーエンとは異なり,ヴィンデルバントは体系的な哲学を残さなかった.『哲学序曲』(初版1884年;第9版1924年)に片鱗がうかがえるのみである.
ヴィンデルバントの新カント派への貢献はふたつあると言える.ひとつは歴史学の論理であり,これはリッカートやラスクに継承された.もうひとつは規範の学としての哲学観であり,これはのちのドイツ哲学の基調となる価値の哲学の基礎となった.ヴィンデルバントがいかにして新カント主義者となったかは明らかではないが,クーノ・フィッシャーの影響は認められるし,またリープマンとは1882年にシュトラースブルクで会ったことがあり,その後頻繁に意見を交換していたようだ.
この章では,ヴィンデルバントの規範についての見解を追っていこう.
2. 規範の学
ヴィンデルバントが最初に規範の学としての哲学観を提出したのは,『純粋理性批判』出版百周年を記念した講演「イマヌエル・カント」(1881)においてである.そこで彼は,カントの体系を,理性が経験の限界を超えられないことを指摘し,また理論理性を道徳・美学から区別して,古代ギリシア哲学以来の知の変革をもたらしたものとして称揚した.カントの体系による諸学の基礎は,存在や形式ではなく,理性の自律性と経験にある.またそれは,新しい数理科学とも密接な関係にある.もちろんギリシア人も自然界を数学的に把握できることを確信していたが,カントは彼らとは違い,数学は人間による構成物であるから.数学的知識を現象界に制限したのだった.だがカントを実証主義者と断じてはならない.というのも,実証主義者は諸科学の可能性の前提条件をまったく考慮しないからである.カントによれば,科学を可能とするためにはさまざまな基礎概念や基礎原理が必要であり,これらは科学によってではなく哲学によってはじめて探究される.
さて,カント哲学の肝は,いかにしてアプリオリな表象がその対象と関係づけられるかという問題であるが,ここでカントは,知識の可能性を,(表象と対象の対応ではなく)規則とその表象との一致によって定めたのであった.ヴィンデルバントにとって,「規範」とは「規則」のことであり,そのことは「真理とは思惟の規範性である」という原理に明瞭である.規範性の概念自体はすでにロッツェ,ヘルバルト,ジークヴァルトらに見られるが,ヴィンデルバントは規範性を哲学の中心的概念にまで押し上げた.哲学の任務とは,人間の活動すべて(科学,道徳,芸術)に価値を付与する基本的な規範を定めることであるという.哲学は世界像ではなく,規範的意識の理論である(後にヴィンデルバントは見解を変えるが).
3. 哲学の復権
上の講演「イマヌエル・カント」と翌年の「哲学とは何か」(1882)という論考は,哲学のアイデンティティ・クライシスへの回答でもあった.ヴィンデルバントにとって哲学の危機は,形而上学としての地位が維持できないことから始まるものだった.形而上学なき哲学に何が残されているのか?その答えは知識の原因に関する心理的・歴史的探究としての認識論ではなく(それはカント以前の認識論に過ぎない)知識の価値や妥当性に関する批判的探究としての認識論であり,問われるべきは表象の原因ではなく判断の正当化である.それこそが知識の理論としての認識論に課せられた任務である.したがって,心理主義的な伝統に乗る人々はすべてカントを誤読しているのである.さらに,いまや心理学は独立した経験科学となっているのだから,心理主義的な認識論は結局のところ科学のひとつとなってしまう.「哲学とは何か」の中心的な議論は,規範的な哲学観のみが哲学の危機を克服しうる,というものだ.
ヴィンデルバントの認識論に対する見方をもう少し見てみよう.それはアプリオリ総合であるとか,普遍的・必然的命題の批判であり,それゆえ哲学は「普遍的に妥当な価値の批判の学」である.普遍的に妥当な主張には科学,道徳,芸術の三種類があり,これらは認識,意志,感覚の領域に対応する.だから,科学・道徳・芸術の哲学が存在する.ヴィンデルバントは判断(Urtheile)と価値判断(Beurtheilungen)の二種類の命題を区別するが,前者は対象に何らかの性質を付与するのに対し,後者は対象に対する(肯定・否定といった)主体の態度を,そしてそれによって対象の価値を定める.哲学は価値判断を(記述するのでもなく,説明するのでもなく)行う.それは誰によっても妥当と認められる,普遍的なものでなければならない.科学・道徳・芸術の各領域で,それぞれの最高次の規範を認識する理想的な存在(があるのかどうかは分からないが)を規範意識と呼ぶ.
4. 規範的なものと自然的なもの
このような戦略は,それはそれでよいものの,では規範的なものと自然的なものはどう関わるのだろうか.もし両者のあいだに何も関係がないのならば,哲学は現実の世界については何も言えないのだろうか.この問題についてヴィンデルバントは,規範の自己意識がわれわれの行動や思考や感覚を決めるのだから,哲学はやはり現実世界に寄与するところがある,というカントの見解を共有しているのだが,これをいかにして正当化できるのだろうか.「規範と自然法則」(1882)という論考を見てみよう.
ヴィンデルバントは自由意志の問題の文脈に置き直して考える.規範は,われわれに選択の余地が与えられている場合にのみ意味がある.もしわれわれの思惟や道徳や感覚が自然法則によって必然的に決定されているのならば,規範など無意味になるであろう.だから,規範と自然法則の関係が問われなければならない.ヴィンデルバントによれば,規範と法則とは矛盾するものではなく,むしろ同じ対象を相補的な観点から扱うものである.もちろん,それらには関係がある.というのも,「べし」は「できる」を含意[前提]し,そのような規範が妥当となるのはそれが[自然の側で?]可能な場合のみであるから.
規範と法則の関係をより詳しく見てみよう.両者のあいだの関係は偶然的である.人間の行動は必然的であるが,だからといって人間の行動がすべて規範に適うかというと,必ずしもそうではない.とはいえ,まったくすべてが偶然的であるわけでもない.自然法則によれば,思惟,意志,感性にはそれぞれ沢山の可能な形式がある.それらから,最善かつもっとも価値あるもの(論理学,倫理学,美学)を選び出すのが規範である.規範とは自然法則を通じた,普遍的妥当性達成のための価値の実現である.規範は,行為を生み出す理由のみならず,原因ともなる.
だがこのような方針は,決定論的な宇宙における規範のはたらきや意義をめぐる問いにおいては論点先取である.結局われわれは自然法則にしたがって行為しているだけなのではないだろうか.ヴィンデルバントは自由と必然性に関する両立主義でもって答えようとする.両者が相容れないように見えるのは,規範による行為は(自然法則に反して)他のように行為する可能性を含むと考えるからだが,行為の理由が行為の原因となりうる以上,このように考える必要はない.だから,ヴィンデルバントはカントによる自由へのアプローチに批判的だ.カントは道徳的責任と自然の因果性が相容れないという誤った前提から出発し,意志を叡智界に押し込めてしまったが,これでは真の道徳性は不可知ということになってしまう.規範と自然のあいだの二分法を再考しなければならない.ヴィンデルバントはここで第二批判の自由概念(道徳的に行為する力)を採用しているが,これには問題がある.というのも,不道徳である自由が扱えなくなるからだ.カントはこれを克服するために意志と選択意志の区別を導入したが,これは結局自由の領域と自然の領域の二分法を認めることになってしまう.