■Beiser, The genesis of Neo-Kantianism, Ch. 13.9--13.10

Frederick C. Beiser, The Genesis of Neo-Kantianism 1796–1880 (Oxford: Oxford University Press, 2014), Ch. 13.9–13.10.

9. 遠心力

1876年5月20日,ヴィンデルバントはチューリヒで「心理学研究の現状について」という教授就任講演[ランゲ,ヴントの後任]を行う.そこで彼は新しい経験科学に敬意を払いつつ,哲学と心理学は互いの領分を侵してはならないと述べる.分業すべきだというのだ.これには,当時のドイツの大学で,哲学のポストが心理学者によって占められつつあったという事情も絡んでいた.そこでヴィンデルバントは,経験科学としての心理学は哲学から独立なのであると主張する戦略を採り,哲学の任務を,科学探究の方法の正当化に求めたのである.これが意味するのは,以前のような論理学(哲学)・心理学・形而上学の混合的アプローチが分裂した,ということであった.

このような方向はさらに「カントの物自体の学説のさまざまな段階について」(1877)でも推し進められた.ここでヴィンデルバントは,カントの物自体の学説には三つのたがいに矛盾する見解が含まれるという.

  1. 物自体は思惟できず,それゆえ不可能である.
  2. 物自体は,われわれが知ることはできないとしても,仮定できるものである.
  3. 物自体は,現象界を説明するために仮定しなければならないものである.

『純粋理性批判』の中にはこのいずれも含まれているため,カントを理解することはカントを超えることである——そのようにヴィンデルバントは述べた.

ヴィンデルバントは最初の見解を支持した.客観性とは表象と実体の対応ではなく,感覚相互の整合性に由来するものであるから,物自体とは対象概念の実体化に過ぎない.また,カントによれば,経験を超えたものの存在を仮定することはできない.だから,カント哲学の真の精神は(このことを明示的に述べたカントのテクストはないのだが),物自体を廃止するところにあり,「認識論の観点からすれば,物自体はまったく無意味で無用,かつ混乱を引き起こす厄介な虚構である」というのである.このように知識を経験に制限した結果,認識論は形而上学と袂を分かつことになった.

さらに,哲学において物自体を廃止することは,同時に心理学をも不要とする.カントの知識に関する探究は,もともとは精神から生ずる表象と対象の対応を問題としており,そこから物自体の存在が心理学的に要請されたのだった.しかし,もし知識というものを完全に内在的に説明できるのだったら,もはや問われるべきは知識の原因ではなく内容となる.これは権利問題であり,論理的探究の対象である.

このようにして心理学はヴィンデルバントの認識論から外されたのであった.1877年のことである.しかし,ある哲学史家は,このような転回は1878年移行に生じたのであると主張している.ケーンケである.

10. 規範性の政治学

ケーンケによれば,上述の説明はあまりにも素朴である.というのは,ヴィンデルバントの置かれた政治的・社会的文脈を考慮していないからである.1878年,皇帝ヴィルヘルム1世に対する暗殺未遂事件が立て続けに発生した.ケーンケによれば,ヴィンデルバントは社会主義者を危険視し,これに対する応答として規範性概念を作り上げたというのである.哲学は文化の普遍的必然的価値を代弁する.ここでいう普遍的価値とは教養ある上層階級にしか理解できないもので,大衆はそのような知識を欠くため,統治者たりえない.そこで哲学における規範意識は「民主主義者・共和主義者・社会主義者どもに対する武器」となるのだ.

ケーンケがこのような政治的文脈を持ち出してきたのは,1870年代後半に,ヴィンデルバントの立場が急に変わったようにみえるからだ.だが仔細に調べれば,まず,そのような転回は既に1876年に生じはじめているし,また一挙に意見を変えたわけでもない.規範性への着目は初期にも見られる.また,この頃のヴィンデルバントにとって,歴史的=心理的アプローチと規範的アプローチとは相補的なものであった.

もちろん,政治的な事件が,完全な規範性へと舵を切るきっかけになった,という可能性は捨てきれない.ケーンケの言う通り,ヴィンデルバントが政治的には保守的だったことは間違いない.民主主義は衒学的で,文化的な統一や法則の自律性を損いかねないと彼は考えていた.だが,政治的な動機によって哲学的な立場を変更したのかどうか,ということは別に検討されねばならない.何よりもまず,「ソクラテスについて」では,ヴィンデルバントは民主制そのものには反対していないということを確認する必要がある.「ヘルダーリン」における彼の記述をよく読めば,実は民主制に敵対していたどころか,同程度の教育を受けた人々に対しては等しい機会が与えられるべきことを主張していたことが分かる.そしてそこでは,一つの世界観を提供するものとしての哲学が理想として掲げられていることも分かる.このことは,規範の学としての哲学と,心理学との分業という態度には反する.

政治的立場だけでこの種の問題に決着をつけるのは難しい.ドイツのマンダリンたちは,ほぼ同じ政治的立場を共有しながら,きわめて多彩な哲学的立場を打ち出したのだから.この点で,リンガー『読書人の没落』にあるような,「ドイツの大学インテリゲンチャの思想の淵源を,ドイツ社会で彼らが演じた特異な役割の中に探る」(リンガー『読書人の没落:世紀末から第三帝国までのドイツ知識人』西村稔訳(名古屋大学出版会,1991年),2頁)という試みには懐疑的にならざるを得ない.

Written on May 21, 2017.