■Beiser, The genesis of Neo-Kantianism, Ch. 13.5--13.6

Frederick C. Beiser, The Genesis of Neo-Kantianism 1796–1880 (Oxford: Oxford University Press, 2014), Ch. 13.5–13.6.

5. 哲学の方法

哲学の任務という問いは「批判的方法か,生成的方法か?」(1883)でも,経験科学とは異なる哲学固有の方法の探究という形で繰り返された.帰納的方法と演繹的方法のあいだには違いはあるものの,どちらも公理から始まるという点で共通する.哲学とは公理の学であり,論理学は科学の公理,美学は芸術の公理,倫理学は道徳の公理であるから,哲学の主要問題は公理の妥当性である.公理自身は証明(beweisen)という意味での正当化はできないが,評価は可能であるし,またその直接的確実性は証示すること(aufweisen)もできる.直接的確実性は,事実的妥当性を明らかにする(生成的方法)か,目的的必然性を明らかにする(批判的方法)ことで示される.前者は事実的で,後者は規範的である.これらの違いは,自然法則と規範,判断と価値判断の違いを反映している.そして,批判的方法だけが哲学の特有の方法である.生成的方法によっては公理が事実的に妥当であることしか分からないし,その帰結は心理学的・歴史的な原因からの必然的なものでしかない.これは相対主義へと陥る危険を孕む.

それに対応するのが批判的方法ではあるが,しかし,これは倫理的相対主義者を説得できるのだろうか?ヴィンデルバントの回答は,相対主義者はまず自家撞着に陥いるであろう,というものだが,これは論理については有効であるものの,道徳や美学の領域にあっては有効な反論ではない.さまざまな目的を目的とも思わない背徳者やダダイストはどうするのか?それに対するヴィンデルバントの回答は「そのような輩を相手にする必要はない」というものである.批判的方法は,普遍的に妥当な目的が存在することへの信頼を前提にするというのだ.

批判的方法には,いかにして個人的な経験から普遍的な規範的意識を知ることができるか,という難題もある.これも注意深い哲学者であれば回避できるとヴィンデルバントは言うが,しかし目的を達成するための手段を知るためには目的をあらかじめ知っていなければならない.また,知識,道徳,美が具体的にどこにあるのかを知ることができなければ,批判的方法にほとんど意味はない.ヴィンデルバントはここで現実の世界をよく観察せよと述べるが,個別的な事実から普遍的な帰結を導くのは不可能であるし,発見法として用いることもできない.

ヴィンデルバントは理性の原理について,ヘーゲル的な歴史に敬意を払っている.歴史が理性の原理も具体的な内容も教えてくれる.とはいえ,ヘーゲルは規範と自然のあいだのギャップを歴史理性によって克服しようとしたのだが,ヴィンデルバントにとってそのギャップはつねに存在するものであった.歴史は因果法則に従ってはいるが,論理法則には必ずしも従わないからだ.後期の著述から分かるように,ヴィンデルバントはヘーゲルに敬意を払い続け,歴史を重視しつづけた.だが新世紀に入って新カント派が老いる一方で,新ヘーゲル派はまさに勃興しようとしているところであった.

6. 自由の問題

さて,哲学の根本的な問題とは,規範の可能性を説明することである.決定論的宇宙で規範なるものがどうして可能なのか?この問題はすでに「規範と自然法則」(1882)で扱われたが,それがより完全な形で展開されるのは『意志の自由について』(1903年のハイデルベルクでの12講義)である.

意志の自由を論ずるにあたっては,まず自由には複数の意味があること,自由とは相対的な概念であること,さらにそれが何からの自由を意味しているのかを踏まえなければならない.意志の三段階に応じて,三段階の自由(意志作用[?],異なる欲求のあいだの選択,行為それ自身)がある.行為の自由は,意志と作用を結びつけることで,われわれの能力の及ぶ範囲で身体の運動を引き起こす.

選択の自由は,たとえ選択にしたがって行動できないときでも,その目的を失うだけで,ともかくも存在する.選択の自由は心理学的な概念であり,道徳的自由は規範的概念であって,両者はまったく別物である.たとえば,ある人物が選択の自由を有しており,かつ道徳的自由は有していない,ということは想定しうる.だが,この両者はしばしば混同されるという(ヴィンデルバント自身,「規範と自然法則」ではこのミスを犯していた).

選択の自由に関しては,等しい選択肢のあいだでは十分な理由[動機]のない選択もありうるが,意志作用という意味では原因のない選択はありえない.行為の原因については,ヴィンデルバントは決定論を認める.とくにわれわれの行為を決定するのは,われわれの持つ一時的あるいは定常的な動機(性格)であり,このことをヴィンデルバントは自己決定と呼ぶ.すると,選択の自由とは,われわれが,われわれの性格にしたがって行為することを選択することを意味する.もしそうなら,これは非決定論をも満足させる.非決定論者からみれば決定論では動機が外部にあるように見えるが,決定論であっても動機はわれわれの中にありうるからだ.決定論と非決定論のあいだの対立は解消される.

これは「規範と自然法則」における両立主義とそう変わらないように見えるが,ヴィンデルバントは責任の考察を通じてより複雑な理論を展開している.それは,行為の自由は心理学的な概念で,また選択の自由も心理学的なものであるが,意志の自由は形而上学的概念だという考えだ.責任については因果性が問題となるが,実は因果性には,異なる事象のあいだで成立するものと,実体と個別の事象のあいだで成立するものの二種類がある.形而上学的自由は前者とは相容れないが,後者とは両立する.事象の系列の外側にある実体に対しては,原因を持たない意志を付与できるというのだ.そして,この意味での形而上学的自由は,人格全体(これが事象の系列の外側にある)に対してのみ適用できる.人格のはたらきは,自存性によって説明される.

このように形而上学的自由の概念を展開しておきながら,後の箇所でヴィンデルバントは,それは余計なものに過ぎないと述べる.結局,ある人の責任を問うときに必要なのは,行為の自由と選択の自由のみであり,形而上学的な意志の力などは不要である.異なるふうにもできたであろうということが本当に意味するのは,そうすべきであったのに,ということか,異なる性格であればそうしたであろう,ということである.ここにふたたび決定論が顔を出す.ヴィンデルバントは道徳的な責任から形而上学的な含みを除去するために,人間の行為を考察する二種類の方法を取り上げる.ひとつは規範によるもので,もうひとつは法則によるものだ.ここで規範によって人間の行為を考察するとは,因果的説明を捨象してさまざまな規則との整合性を扱うということであって,人間の行為が因果性を持たないと言っているわけではない.このように見てくると,規範的なものと自然的なものの区別は,異なる存在論的ステータスではなく,人間の行為を説明する際の異なる観点に対応することになる.存在論的な含意を持たないことによって,規範の領域は形而上学なしでやっていけるようになる.

Written on May 10, 2017.