■1924年から25年のシュレーディンガー・プランク・アインシュタイン——Mehra and Rechenberg 1987

J. Mehra and H. Rechenberg, The Historical Development of Quantum Theory, Vol. 5 (New York: Springer, 1987), Ch. III.I

量子論の歴史を包括的に記述したMehraとRechenbergの大著 The Historical Development of Quantum Theory の第5巻は,シュレーディンガーの波動力学に関するものである.この記事では,シュレーディンガーの波動力学の誕生に至る直前までの,プランクとアインシュタインとの意見交換についてまとめる.

1924年9月21日から27日にかけて,インスブルックでドイツ自然科学者・医学者協会が開催された.プログラム委員はシュヴァイトラーで,ドイツ物理学会との共催だった.量子論関係では,ゾンマーフェルト(量子論とボーアの原子模型の基礎),クラッツァー(分子の性質とバンド・スペクトル),ヴァールブルク(光化学における量子則),フランク(原子と分子の衝突およびそれらの化学的意味)などが講演し,さらにボルン(動力学的問題としての化学結合),エーヴァルト(固体の構造),ファヤン(化学結合の性質と原子構造),フュルト(導体の誘電率),ゲルラッハ(原子の磁気モーメントと方向量子化についての実験),そしてプランク(ボーアの原子モデルの量子統計)が続いた.

プランクは水素原子からなる気体に関して,適切な状態和の定義を論じた.量子論にしたがって素直に状態和を計算し,そこにボーアの計算によるエネルギー値を代入すると,状態和が発散してしまう(この難点はボーアは1916年に既に指摘していた).プランクはこの難点を,状態和を電子が自由になっている場合の項と束縛されている場合の項とに分割することで乗り越えようとした.ここでプランクは,同種粒子を扱うため,N!の割り算を用いた.シュレーディンガーはこの議論を注意深く追い,翌年に立ち戻ることになった.

アインシュタイン=ボース統計に関する議論も背景として重要である.BKS理論(光量子仮説を避け,保存則を破る)との関係において光量子論をめぐる議論が活発になっていたが,シュレーディンガーは1920年頃から光量子仮説についての研究を行っていた.アインシュタインは1924年,ボース論文(光量子仮説からプランクの放射則を導出)を受け取ると,ただちに量子理想気体の理論へと応用し,粒子の統計的独立性,気体の縮退,ギブスのパラドックスなどについて重大な含意を引き出した.プランクはギブスのパラドックスに関して論考を残している(1922年)し,ミュンヘン大学での講義では,エントロピーの定義も含めた理想気体の量子論を扱った(1924年〜25年).

インスブルックでの成果は大きかったが,シュレーディンガーはおそらく講義負担のために,研究に時間を割くことができなかった.水素分子の比熱についての論文がわずかに1本出たのみである(そこでは「プランクの状態和」を用いていることから,プランクの影響がうかがわれる).しかし,1924–25年の冬学期の講義で,シュレーディンガーは量子統計を扱っていたようで,また学期が終わるとただちに研究を再開した.1925年2月,アインシュタインとの文通を開始し,縮退について議論した.アインシュタインは,粒子のあいだの独立性が保たれないこと,さらにボルツマン統計では,ネルンストの熱定理が破れるか,あるいはエントロピーの示量性が破れることを示唆した.

シュレーディンガーは「理想気体における統計的なエントロピー定義についての注意」(1925)において,同種粒子の適切な計数法について研究するとともに,4種類のエントロピー定義を比較した.プランクの定義では,ネルンストの熱定理に反し,また零点における負のエントロピーを再現できない[?].そこで最終的には,所与の全エネルギーEにおけるすべての[分子的状態の?]順列の数の対数(にボルツマン定数をかけたもの)をエントロピーの定義とするべきという.

プランクは「エントロピーの統計的定義について」(1925)でシュレーディンガーに応答し,シュレーディンガーの四つの定義のどれとも一致しない定義を提案した(S = k \log P,Pは所与のエネルギーを持つ系が取ることのできる定常状態の数).プランクは確率に関する直接的考察を避け,エントロピーの計算を量子化の問題に還元した.エントロピーの計算を直接に行い,系を構成する分子に関する考察(これは分子どうしの相互作用を考慮しないといけないかもしれない)は不要だという.この新しい定義について,プランクは続く「エントロピーの新しい統計的定義」(1925)において,アインシュタインの新しい統計をも含みうるその一般性を強調した.

プランクはボルツマン=ギブス統計からの逸脱の可能性を示唆していたが,シュレーディンガーはこのアイディアを気体全体に適用するのは不可能ではないかと見ていた.しかし,1926年1月7日に発表された「単原子分子理想気体モデルのエネルギー状態」の中では考えを変えている.1925年9月26日付の書簡で,アインシュタインはシュレーディンガーに,プランクのアイディアが興味深いことを述べており,N個の同種分子からなる気体の量子状態のエネルギーがn^{3/2 N}に比例することを計算している(アインシュタイン自身はこの結果を好まなかったが).これをもとにシュレーディンガーは計算を続け,量子理想気体の状態方程式を導出した(11月5日).いくつかの修正を経て,12月4日にはシュレーディンガーがアインシュタインに論文を送り,翌年1月7日にアインシュタインはそれをプロイセン科学アカデミーの会合で発表した(紀要に印刷されたのは2月11日).その理想気体のエネルギー状態に関する議論では,縮退および擬エルゴード仮説による位相空間の取り扱いに注意した後,量子化されたエネルギー状態を計算し,それを状態和に代入して特性関数を計算して,高温と低温それぞれについて気体の性質を論じた.

シュレーディンガーにとって以上の成果は,理想気体という非現実的な仮定を含んでいたために,現実の単原子分子気体を現しているとは思われなかった.シュレーディンガーの理論はプランクのものにもアインシュタインのものにも与していなかったが,ともかく高温かつ密度がそれほど高くない気体全体に関して,プランクのエントロピー定義を使うことでその量子化されたエネルギー状態を計算することができた.だから,シュレーディンガーはプランクの定義を賞賛し,それを古典論におけるギブスの定義と関連づけているが,同時に等確率状態の設定の仕方に疑問を呈してもいる(アインシュタイン宛書簡,1926年1月21日).この点でシュレーディンガーは,プラグマティックな結果を出すアインシュタイン寄りでもあったが,その量子論的な証明を要求するという意味ではプランク寄りであった.これは間も無く果たされるのだが,そのときに必要になったのはド・ブローイの物質波の概念であった.アインシュタインの論文を通じてそれを知ったシュレーディンガーは,1925年11月初旬にド・ブローイの博士論文を入手して検討し,気体論に適用した.

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Written on February 1, 2018.