■ファインマン・ダイアグラムの拡散 (4)——Kaiser 2005

David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 4.

米国外へのファインマン・ダイアグラムの拡散を追跡する.英国では,おおむね米国と同じようにファインマン・ダイアグラムは拡散していった.つまり,ダイソンとの接触を通じてである.英国でIASと同様の役割を果たしたのはケンブリッジ大学のグループであり,バーミンガム大学がそれに続いた.大学院生やポスドクがすすんでファインマン・ダイアグラムを取り入れたが,それは基本的には,既にその技法に習熟していた者から直接習うことによってはじめて可能になったのだった.ダイソンが米国に帰る寸前にあやうくサラムが彼をつかまえて質問した話や,ハンガリー出身のValatinがバーミンガムにポスドクとして来た際の話にそれがよく現れている.1949年から54年にかけて,英国では26人がファインマン・ダイアグラムを用いた論文を52本出版した.

戦後の日本では,物質的な欠乏は避けられなかったものの,CIE図書室を通じて徐々に米国からの情報(すなわち_Physicsl Review_)が入るようになるとともに,湯川が Progress of Theoretical Physics を創刊し,また素粒子論グループが形成されて,その会合や『素粒子論研究』などで情報交換が活発になった.『素粒子論研究』はかなりくだけた情報誌といった趣であり,プレプリントのような記事のほかに,海外出張報告や,海外の物理学者からの書簡も掲載された.さらに,1949年末に海外渡航が認められるようになり,多くの物理学者が米国へ向かった.これらの様子を調べることで,ファインマン・ダイアグラムの日本への拡散が追跡できる.

朝永振一郎はくりこみ理論を作り上げ,すでにQEDに習熟していたが,朝永のグループでは,QEDにおける摂動計算はきわめて複雑で項を見落とす危険があることが認識されていた.これに対処するため,朝永グループでは木庭二郎と武田暁が独自の図式的な記法を編み出してPTPに投稿した(1948年10月4日受付)が,そこに届いたのがダイソンの論文(1948年10月6日受付)だった.ダイソンの論文で説明されていたダイアグラムを習得する努力が重ねられ,武田は1949年10月に真空偏極に関するファインマン・ダイアグラムを説明する記事をPTPに出版したが,その図には「開口部」があった.それは武田がダイソンの理論をハイゼンベルクの「基本長さ」と結びつけようとしたからだったが,その結果,ダイソンのものとは異なる図ができあがったのだった(ダイソンのグループであれば,仮想粒子を表すとする武田の意図とは異なり,光子と二つの実在する電子の相互作用を表すと解釈するだろう.仮想粒子であれば「開口部」などあってはならないからだ).また,摂動計算に長けた者の中には,単に例示のためにファインマン・ダイアグラムを用いる者もいた.日本ではじめてダイソン流のファインマン・ダイアグラムを用いたのは木下東一郎だった.彼はダイソンの論文を注意深く検討し,坂田のC中間子理論が発散の問題を解決できないこと(1950年3〜4月,PTP)や,中間子と光子がどう相互作用するか(同年5〜6月,PTP)を論じた.

日本へのファインマン・ダイアグラムの拡散は,朝永がIAS出張から帰国(1950年夏)して以降に本格化した.戦後の日本の大学システムの再編により,以前はかなり長い間同じ大学(の同じ指導教官)のもとに留まるのが一般的だったのに対し,大学のあいだの流動性が高まり,これによりファインマン・ダイアグラムは東京の素粒子論グループから日本中の大学に広まることになった.特に強力なグループが大阪市大(南部,木庭,早川,西島,山口)に形成され,そこから京都へと人と情報が流れた.この流れは文部省や企業からの奨学金によっても加速された.

戦後,冷戦がはじまったとき,ソ連の物理学者にとって障害となったのは,共産党によって米国からの情報を得にくくなり,とくに人的な接触が制限されたことである.ただし,兵器開発のために西側の文献を読むことは認められており,ファインマン・ダイアグラムに関する限りは,まず水素爆弾の開発計画の中で Physical Review のダイソン論文が読まれた.実際,水爆を爆発させるときに放射によって失われるエネルギーの量を計算するために,Berestetskii,Galanin,Ioffeらがダイソン論文を検討し,このうちGalaninが1951年には機密に触れる部分を避けながらも Zhurnal に論文を発表しはじめた.しかしながら,ダイアグラムの普及には直接的な接触が必要である.ここでランダウはファインマン・ダイアグラムの方法を認めなかったため,Galaninらは別にセミナーを開いて若手の物理学者にダイアグラムの方法を広めた(1951年10月).ここで学んだ物理学者がランダウを説得することに成功し,ランダウも1954年2月からファインマン・ダイアグラムを含んだ論文を書くようになったが,実際の計算は若手任せだったようだ.1953年に出版された教科書のおかげもあり,1954年終わりまでには徐々にファインマン・ダイアグラムを含んだ論文は増えていった.

しかし,やはりモスクワにファインマンやダイソンを招きたいという希望は依然としてあった.実際にソ連の物理学者は彼らを招待はしたものの,米国側の制止により失敗した(1955年4月).この潮目が変わったのはジュネーヴで開催された「平和のための原子」会議(1955年8月)からで,米国とソ連の相互交流が推進され,1956年5月にモスクワで開かれた会議には米国からファインマンとダイソンを含めた6名の物理学者が派遣された.さらに9月にはシアトルでの会議にソ連の物理学者が参加したが,このとき彼らはIASをも訪問して議論を交わした.その結果,ソ連ではファインマン・ダイアグラムを用いた論文が急速に増大した.その一方で,ソ連の物理学者の手になる独自のダイアグラムも発案され,これはファインマン・ダイアグラムと1957年までしばらくのあいだ併存した.ソ連におけるファインマン・ダイアグラムは摂動計算のために限られており,他の目的のために使用されたのはアメリカの物理学者からの情報が入ってからだった.

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Written on January 31, 2019.