■ファインマン・ダイアグラムの拡散 (1)——Kaiser 2005
David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Preface and Ch. 1.
ファインマン・ダイアグラム,そして戦後の物理学史に関する名著とされる.その序文と第1章(これが本書のまとめでもある)を読んだ.
この本では,理論物理学者が何をしているのか,彼らの日常的な仕事が第二次大戦後にどう変わったのかを問題にする.とくに,理論的な道具立て,技術,実践に焦点を当てる.物理学史の研究は量子力学などの理論に焦点を当ててきたが,その結果判明したのは,理論というのは単一の統一された全体などではなく,異なる解釈がいつでもなされるということだ.また,理論物理学者はつねに計算 calculation をするが,計算手法はそれ単独で習得できるものではなく,それを使えるようにするための教育 pedagogy がともなう.この本では,ファインマン・ダイアグラムを題材とすることで,理論物理学者の訓練,さまざまな使用法,そして研究グループのあいだの差異を明らかにする.
ファインマン自身がどれほど大きな業績を残した理論物理学者であったか,また著名であったかは言うまでもない(チャレンジャー号の事故調査やアップル社のキャッチコピー“Think Different”の広告写真でも有名だ).さて Physics Today が彼を記念した特集号では,ファインマン・ダイアグラムが象徴として選ばれた.それは1940年代後半に量子電気力学における長たらしい計算を簡略化するための「簿記 bookkeeping」として登場したが,1960年代までには固体物理学や重力物理学でも使われるようになった.
従来の物理学史では,歴史分析の単位として「理論」を選んでいたが,20世紀中盤以降の物理学者にかぎって言えば,彼らの仕事の中心は計算であり,さまざまな道具立てを用いて異なる領域の問題に取り組んだりする.そのような計算のための道具立ては,ウルズラ・クラインに従えば「ペーパー・ツール」と呼べる.道具を使うためには,訓練あるいは実践が必要であり,ここで教育という要素が登場する.これには教室での講義や教科書だけでなく,(非公式な)個人的接触も含まれる.ただしこのときに,何が伝達されるのかは,人や場所により異なることに注意しなければならない.これにより,標準化される前のファインマン・ダイアグラムには,学派ごとのスタイルの違いが存在した.また,第二次大戦後のアメリカでは物理学の学生が急激に増えたが,ファインマン・ダイアグラムはこれに対してちょうどよい教育法だったことも見過ごせない.
ファインマン・ダイアグラムの「拡散 dispersion」には,地理的な広がりと,他分野への広がりという二つの意味がある.
どのようにファインマン・ダイアグラムは広まったのだろうか.もっとも重要なのは,戦後のアメリカの物理学界ではじめて一般的になったポスドクという制度であり,彼らが大学間を渡り歩くことでファインマン・ダイアグラムは広まった.また,プレプリント,(未公刊)講義ノート,教科書といった要素も重要である.
何に対してファインマン・ダイアグラムは使われたのだろうか.ここで,道具は多用途でなければならないというレヴィ=ストロースの言葉が思い出される.物理学者はそれぞれの問題を処理するために,さまざまにファインマン・ダイアグラムを改変した.この改変の仕方はまったくのランダムではない.つまり,教育を通じた人的な影響が見られ,大学ごとに特徴が出るのである.その上に彼らは,ファインマン・ダイアグラムを,何らかの物理的なプロセスを表現するものであるとか,有用な記憶法であるとか,図式的な推論法であるとか,異なるふうに解釈していた.また,ファインマン・ダイアグラムからは,チューのS行列理論のプログラムが生まれたが,チューによるファインマン・ダイアグラム解釈は教育的次元から政治に至るまでの,彼の背景を反映したものとみなせる.
なぜファインマン・ダイアグラムは定着したのだろうか.ある程度時間が経つと,物理学者は,一見適切ではないような問題に対してもファインマン・ダイアグラムを適用するようになった.それは,ファインマン・ダイアグラム以前に物理学者が慣れ親しんでいた図式的な表現(時空間内での物体の軌跡など)と親和的だったからだ.
以上のことから,ファインマン・ダイアグラムが社会的構成物であることが示されるが,それだけではロマン派の詩が社会的構成物であるのと変わらない.次に問うべきは,ファインマン・ダイアグラムという社会的構成物がいかなる点で他の社会的構成物と異なるのかということだ.
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