■ファインマン・ダイアグラムの拡散 (2)——Kaiser 2005
David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 2.
1948年春に,ファインマンがファインマン・ダイアグラムを導入してから,54年までのあいだにいかにしてそれが物理学者のあいだに普及したかを検討する.注目すべきことに,ファインマン・ダイアグラムは,教科書などではなく,個人的な接触によって広まった.
量子電気力学(QED)では,仮想粒子を導入することで素粒子に関する過程を記述しようとしたが,その途中で,電子や光子の自己エネルギーが発散してしまったり,真空偏極により電子の有効電荷が発散してしまうという問題が生じた.摂動計算により(原理的な問題はともかくとして)この問題を回避することはできたものの,この計算は非常に複雑だった. この事態に対し,かつての量子力学のパイオニアたちは概念的な変革の可能性を感じていたが,米国の若い世代の物理学者たちは,戦時研究の影響もあり,具体的にどう計算するかという問題に取りかかることを選んだ.
1947年6月,シェルター・アイランド会議でラム・シフトが報告されると,ヴァイスコップフとシュウィンガーはそれが電子と仮想粒子の相互作用に起因するのではないかと示唆し,同年11月,後者は放射補正によってラム・シフトを説明することに成功した.このくりこみによって発散の困難は回避されるようになったものの,ひとつの問題が残った.計算が難しいままだったのだ.
ここでファインマン・ダイアグラムが,より簡便な計算法として登場する.ファインマンは1948年春,ポコノ・マナーでの会議でファインマン・ダイアグラムを提案した.このときは,しかし,大きな興味は引かなかった.ボーアやディラックといった大御所の反論に遭ったし,シュウィンガーの長い講演の方に聴衆の興味が向いていたからだ.その後も,ベーテやパウリが苦労したことから分かるように,ファインマン・ダイアグラムは習得困難な方法だった.系統的なルールが未だ存在しなかったためである.
とはいえ,ファインマン・ダイアグラムを含む論文の数は増えていった(平均すると2.2年ごとに倍).ファインマンが最初にダイアグラムを含む論文を Physical Review に出版する数ヶ月前から,ダイアグラムを使用する論文は続々と準備されていた.彼らはファインマンをはじめとする,すでにダイアグラムを知っている物理学者から個人的に教えてもらうことでそれに習熟した.その広がり方は,米国東海岸から始まって,中西部や西海岸へと,また海外へという具合であった.分野は理論物理学がほとんどで,さらに若手の物理学者が多数を占めた.特に最初の6年間は,個人的な接触を通じて広がったことがファインマン・ダイアグラムの特徴である.その中でとりわけ重要な役割を担ったのはプリンストン高等研究所,そしてフリーマン・ダイソンである.
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