■量子論史における研究と教育——Badino and Navarro 2013
Massimiliano Badino and Jaume Navarro, “Pedagody and Research. Notes for a Historical Epistemology of Science Education,” Research and Pedagogy: A History of Quantum Physics Through its Textbooks, ed. M. Badino and J. Navarro (Berlin: Edition Open Access, 2013), Ch. 1.
量子論形成期における最前線の研究と教科書のあいだの相互作用を調べた論集の導入部.科学の古典的なイメージあるいはマートン主義によれば,知識は科学のエリート集団の中で作られ,それが一方的に教科書によって伝達される.このような描像はもちろん批判はされてきたものの,科学教育に対する体系的な歴史研究が始まったのはごく最近のことである.そこで鍵になるのは,教科書の役割を再検討することだ.
クーンの批判により,科学者は教育過程により作り上げられることが明るみに出された.教育により,問いの立て方,解答の仕方,手続きの妥当性が教え込まれるため,それは分野そのものの定義に関わる.しかしクーンは,教科書については,それは通常科学の産物であり,「死んだ」知識のリポジトリだと考えたため,かえって教科書に対する歴史的研究は遅れることとなった.とはいえ,教育が研究コミュニティの形成にとって重要であるというクーンの指摘は影響力が大きく,多くの科学史研究がこの路線の上になされることになった.他方で,科学的事実の生産という問題設定でも,1935年のフレックの本以来,科学史家・科学哲学者・科学社会学者は多くの研究をしてきた.そこでは,専門家の養成という観点から,教科書がさまざまな概念,方法,実験手続き,正統的解釈などを固めることが示された.
個別の社会的状況に制約された研究ばかりでなく,より一般的な認識論的関心が生まれた.それはフーコー『監獄の誕生:監視と処罰』による.彼は学校を,教師と生徒のヒエラルヒー,規範的判断,試験という三つの活動に分析した.彼の分析はクーンのものと似ていたため,ウォーリックとカイザーは,「フーコー的立場」を科学教育の一般的枠組みとして提案したのだった.しかしこれには,パラダイムを変革するような独創的な知識の生産(「弟子が師を殺す」)を捉えることができないなどの難点がある.また,クーンは物理科学を念頭に置いていたのに対し,フーコーはそれをむしろ避けていたように思われる.「フーコー的立場」は,フーコー自身の権力/知識の二分法のうち,知識によって補強される必要がある.このようにしてこそ,科学教育の分析において,ふたつの要請を満たすことができる.ひとつは,教科書が歴史記述のまっとうなツールになること.もうひとつは,安定的な状態ではなく,科学的なブレークスルーが起きるときに目を向けること.このときには,教科書は中立な真理のリポジトリではなくなり,研究活動との活発な相互作用が見えてくる(そして,通常科学と科学革命との境界は,さほど明確ではなくなるだろう).
教科書は量子革命のさまざまな歴史的状況を明らかにしてくれる.教科書は研究論文とは異なるタイムスケールを持っており,論文よりも広い範囲のトピックと読者層を持っている.まず,教科書の構成は,科学的知識の内的な動態を明らかにしてくれる.教科書は,とくに科学が混乱しているときには,伝承された知識を再編成してそれを新興の理論と統合しようとする.この反省的な過程には新しい仮説,概念,仮定のみならず,新しい形式的技術,手続き,方法などが関与しうる.それは生産的な思考を始めるのに重要である.言い換えれば,教科書は知識の体系性の特権的な事例であり,これはグローバル化の次元においても知識の伝達の一般的な枠組みであるようにおもわれる.