■Turner, Prussian Universities (1973), Ch. 5
Steven Turner, The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848. PhD. Dissertation, Princeton University, 1973, Ch. 5.
- Introduction (オシテオサレテ)
- Chapter 1 (オシテオサレテ)
- Chapter 2
- Chapter 3
- Chapter 4 前半・後半 (えめばら園)
- Chapter 5
- Chapter 6 (Mikro und Makro)
- Chapter 7
第5章 研究義務:批判とイデオロギー
三月前期のドイツの大学を特徴付けるのは研究義務である.これは,明示的には学問のイデオロギーという形で擁護され,大学内部における創造的な研究を称揚した.またそれは,暗黙には,研究志向の大学の機能の中に含まれている.大学は実際新しい知識や確かな方法を望み,それらを学生に教育することで研究と教育を大学という単一の機関で行うことを望んだのである.この章では,1850年ごろにこうした態度が確立するまでの時期を扱う.研究義務をめぐる変化は,主に人文学における方法と組織の変化に始まり,それが各分野に波及するという形を採った.
新しい学とその創始者たち
研究義務が生じたのは,人文学における革命のためであり,カント的な批判,古典文献学,歴史学,ドイツ語学,東洋文献学の興隆による.自然科学については,それは1830年代まで生じなかった.1800年以降のドイツの学問を象徴するのは(思弁哲学と)古典文献学であり,その成果が法学や史学などに持ち込まれたのだった.既にゲッティンゲンではハイネが手を染めていたが,ヴォルフは古典文献学をいっそう発展させ,言葉だけでなく政治状況や当時の文化などをも含む古代学 Altertumswissenschaft へと仕立てあげ,ハレからベルリンに移って弟子を育成した.その一人ベックによる『アテナイ人の財政』(1817)は,アテナイの文化を芸術面ではなく政治や経済の要素から扱った.また,ベックも多くの弟子を育成し,とくにミュラーはゲッティンゲンへと師の方法を持ち込んだ.ベックは,文献学と古代史を融合させ,その弟子は文献学者としてではありながら古代史の講座を席巻した.
古代学には二つの方向性があった.ベックの「歴史的・尚古的」古代学(Sachphilologie)と,ヘルマンの「文法的・批判的」古代学(Sprachphilologie)である,ヘルマンはライプツィヒで教えていたが,ベックに劣らぬ影響力を見せ,ベルリン以外の大学に多くの弟子を送り込んだ.二つの学派のあいだの論争は1826年に口火を切られたが,1840年ごろには収まった.弟子たちはあまり興味がなかったようである.
古典文献学はロマン主義者たちのドイツ文化や古い時代への興味を刺激した.また,より歴史的かつ文献的なアプローチへの移行は,ゲッティンゲンのベネケとグリム兄弟によって果たされることとなり,特にグリム兄弟は『ドイツ文法』(1819)によってゲルマン文献学を誕生させることとなった.また,ラッハマンは古典文献学の手法を用いて『ニーベルンゲンの歌』を校訂(1826)して注釈(1836)も与えたが,彼はグリム兄弟とは異なり弟子を育成してその後の古典文献学およびゲルマン文献学に大きな影響を与えた.
歴史学では,三月前期には政治的主張を含む愛国的・ロマン主義的な歴史記述も見られるが,ニーブールおよびランケによって批判的方法への転換が図られた.特にニーブールは,王政期のローマ史料を詳しく検討した『ローマ史』(1812)のように,古典文献学の影響を強く受けていた.ランケもまたライプツィヒのヘルマンの下で学び,文献学を修得した.彼の出世作『ラテンおよびゲルマン諸民族の歴史』(1824)には,「実際に起きたままに wie es eigentlich gewesen」という,客観的で価値自由な方法論的論考が含まれる.ランケはまた,文書館資料の重要性を知らしめた.ランケの影響力は絶大であり,19世紀の後半までドイツの史学界の重要な位置を占めた多くの中世学者を育成した.
法学もまた文献学による影響を受けた.サヴィニーとアイヒホルンによる歴史法学の創始である.
こうした,ベルリン,ライプツィヒを中心とする新しい学問は,18世紀の学問とは大きく異なるものだった.もちろん,18世紀との連続性を否定するわけでないが(ゲッティンゲンなど),それは広く普及することはなかった.また,ロマン主義の影響を無視するわけにはいかない.古代や中世への憧憬は,史学・法学・文学にある種の統一性をもたらしたのである.
学問 Wissenschaft と批判 Kritik
19世紀に学問の世界に生じた革命の意義が,批判的方法にあることは疑いない.批判という用語は,学問 Wissenschaft や陶冶 Bildung と同じく,アカデミックな世界の基本的範疇であった.それはまずカント哲学の用語として生まれ,1820年代に,史料の一貫性・信頼性・正当性の懐疑的評価という形で,文献学や歴史学に吸収されたのだった.批判的方法は,知的にも制度的にも学問を変革した.
文献学の方法は,本文批判に関するものであるが,とくに伝承されたテクストの校訂が重要視される.また,訂正も必要とされるが,校訂が(十分な量の手稿があれが)正確かつ厳密に実行できるのに対し,訂正には主観的・蓋然的要素が含まれる.
ホールによれば,文献学の発展は三つの段階に分けられる.ヴォルフ,ベッカー,ラッハマンである.ヴォルフは『ホメーロス序論』(1795)を著したが,イーリアスやオデュッセイアは単一の著者による作品ではなく,むしろいくつかの口承の集成だと考えられることを示した.彼の主張は特に目新しいものではなかったが,『序論』は批判的・文献学的方法の威力を知らしめ,また聖書やゲルマン叙事詩などへの適用可能性をも明らかにしてくれた.『序論』の影響を受けたベッカーは(ベルリン大学での講義を行わず)パリで過ごし,イタリアからフランスへ送られた史料の校訂に精力を注ぎ,写本の系統関係を解明する方法を洗練させた.ラッハマンは本文批判の方法を高めた.やはり『序論』を呼んで批判の方法を修得したラッハマンは,校訂と訂正とを融合させ,古代のテクストを完全に再現することを試みた.彼の『ルクレティウス』(1850)はヴォルフの『序論』と並ぶ古典文献学の傑作である.
古典文献学には大量の古代のテクストが必要であり,それゆえ,史料集の公刊プロジェクト(ベックのCorpus Inscriptionum Graecarum など)や,プロイセンによりローマに研究施設が設けられたりした.また,古典文献学と同様のことが歴史学にも生じた.
ドイツの学問における批判的方法とdisciplinary preemption
古典文献学や歴史学に関わっていた学者たちは,自分たちの方法が新しいものであることを自覚していた.もちろん彼らは,リチャード・ベントリーのような先駆者の存在を認めてはいたが,その方法を厳密化して批判的方法にまで高め,普及させたのは,ヴォルフをはじめとする古典文献学者たちなのである.これは,ある種の制約を伴っていた.つまり,厳密な批判的方法を導入したことにより,大量の文献へのアクセスや,大学でしか受けられないような歴史的訓練が必要とされることになり,他とは区別される専門家集団が形成されることになったのである.それは,問いや方法,基準,スタイルを共有するコンセンサス・グループであり,ダニエルズの言葉を借りれば disciplinary preemption であった.古典文献学は,1800年ごろに,disciplinary preemption へと転換したのである.
専門的な古典文献学者は,自分たちの分野に厳密な方法と基準を課した.専門家のあいだではまた,進歩に遅れることが極度に怖れられた.また,1810年ごろには,ヴォルフ,ニーブール,ヘルマンなどの古典文献学の創始者たちがその弟子によって批判されるようにもなった.古典文献学はダイナミックかつ競争的に行われるようになったのである.古典文献学のdisciplinary preemtpion への移行はまた,ロマン主義的な起源からの脱却をも意味し,その結果,ドイツ啓蒙の美的な新人文主義と,大学における批判的新人文主義のあいだに亀裂が生じたのである.また,専門家集団は,通俗的な学問には敵対的な態度を取った.このことは公衆の側にも気付かれており,文献学者はエゴイストで傲慢であると思われるようになった.
文献学には,大量の文献や,専門的な訓練が必要であり,それは大学でのみ可能だった.この要請に応じて,研究義務を伴う制度的な変化が生じた.
批判と独創性
批判的方法の登場は,学問観や,独創性とは何かについての考えも変革した.ニーブールも,ヴォルフも,ランケも,ベックも,サヴィニーも,グリム兄弟も,18世紀のものとは異なる学問観を持っていた.ひとつは,批判的方法を重視し,批判的な独創性をもっとも価値ある貢献をみなしたことであり,もうひとつは,学術的な独創性を,批判的方法の成果と同一視したことである.彼らにあっては,独創性とは,批判的方法の適用から生まれるものだったのである.そこでは,批判は新しい学問的理想となった.18世紀には,たしかに独創性は否定はされてはいなかったが,それは天才のものであったし,たまにしか訪れないものだった.これに対し,19世紀には,批判的方法を訓練により修得することで,天才でなくとも学術的に独創的な成果を恒常的に生み出せるようになったのだ.ベックの学問観はシェリング的である.すなわち,われわれの内的な自由が,それ自身の原理により,動的に,無限に,そして恒常的に展開していくことが学問なのである.ここでは天才や偶然のはたらく余地はない.こうした新しい学問観が,ドイツの大学における研究義務の認識論的前提条件を与えることとなった.
批判と学問イデオロギー(Wissenschaftsideologie)
18世紀,大学のあるべき姿として,学問イデオロギーが考案された.それは教育,市民生活,道徳に関するものであったが,もうひとつ,学問に関するものでもあった.たとえばフィヒテは,知識の伝達という役目は書籍の登場によって終わったとしつつも,大学には口頭での講義があり,そこで大学教師は学問が自分自身の内で生きていることを示さなければならないという.また,大学教師は,実際にできるかどうかはともかくとして,知識の拡大に務めなければならない,とも.フィヒテの見解をフンボルトも共有しており,大学は知識を「涵養する」すなわち拡大することが任務であると考えた.また,シェリングは,教育そのものが創造的な活動であると論じた.さらに,大学教師は自身の内なる学問を学生に教授しなければならず,そのため,大学教師は独創的な学者でありかつ教師でなければならないと論じた.三月前期に広まったのはこのような学問イデオロギーであった.
学問イデオロギーは,三月前期に,批判的方法によって独立に引き起こされた学問の変化を合理化し,強化したように見える.しかし,ことはそれほど単純ではない.むしろ,学問イデオロギーは,新しい批判的態度と衝突した.まず,学問イデオロギーの提唱者たちすべてが,研究業績を大学教授職への採用基準にするべきであると考えていたわけではない.また彼らは,文献学のゼミナールで行われていたような,研究と教育の緊密な連携を想像していたわけではない.研究と教育が統一されるべきだという明示的な文言が見えるのは,フンボルトの著述の中においてのみである.
さらに,学問イデオロギーの提唱者はおおむね思弁哲学者だったということに注意を払わなければならない.統一を志向する哲学者とは,分析的な文献学者は折り合いが悪かった.哲学者と文献学者の学部長席をめぐる争いは,1820年代にはすでに始まっていたが,その背景にはこのような事情があると考えられる.そこでは主にヘーゲル哲学が問題となっていたが,ヘーゲル学派の勢いが1830年代に衰えると,それと歩調を合わせるかのように専門分化が進行した.これを嘆く向きもあったが,ベックはむしろ歓迎していた.
1835年以後,ふたたび大学批判が噴出した.学問イデオロギーに基づく教育目標が達成されていないというのである.その原因は,大学が個別研究を重視しすぎていること,教育上の必要を無視していることにあるというのである.これに応じて,「新しい」学問イデオロギーが提唱された.それは,文化国家の理論や,反功利主義,学問の道徳的・動的概念に基づいて研究志向の大学を擁護しようとするものだった.教育の目標は,学生に,学術的独創性を喚起するところにあるとされた.ベックもこの問題に関わり,専門分化した研究を擁護するとともに,現在の教育には詳細かつ分析的な研究が必要であり,そのような研究を遂行することが「大学教師の真の召命」をなすと述べた.とはいえ,ベックは,知識の統一を無視して個別的な研究に没入していればよいと考えたわけではなく,小さな煉瓦にも建造物全体が反映されていると考えた.個人的な研究により,知識全体の統一に向かう感覚が得られるといのである.とはいえ,知識全体は個人では決して見渡すことはできず,また永遠に完成することもないのだが.