■Turner, Prussian Universities (1973), Ch. 6

Steven Turner, The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848. PhD. Dissertation, Princeton University, 1973, Ch. 6.

第6章 研究義務.制度的変遷

研究義務の定着には,大学の制度的な改革という要素と,知的・イデオロギー的な潮流という要素がともに必要だった.

コーポラティズムとしての大学の凋落

第3章ではコーポラティズムとしての大学の性格を確認した.しかし,1790年代から,プロイセン政府の政策によって,このような性格は変化を余儀無くされる,1794年,プロイセンは「一般国法 Allgemeines Landrecht」を制定するが,その中には,公務員(ひいては大学教授)の身分保障による学問の自由の確保,辞職の自由の保障,そして1810年にはフリードリヒ・ヴィルヘルム三世により,学生が国外の大学へと転学する自由が認められた.これらは,大学のあいだでの競争を引き起こし,大学の中では政治的・宗教的にセンシティブな問題が扱われるようになり,さらに教授のキャリア形成にも影響を与えた.三月前期には,教授が他の大学からの招聘を受けると,それを材料にして待遇改善の交渉をしたり,教授が大学間で移動するのも普通のことになった.

こうした変化は,大学のコーポラティズムや教授たちの連帯感を解体する方向へと作用した.大学教授たちが持っていた抵抗権,免税特権,衣装,複数の教授職などのさまざまな特権は廃止された.さらに,大学間での流動性が増し,また教授の出身階層が多様になるにつれ,教授陣の連帯も失われた,

この時期の重要な変化として,私講師の役割を挙げなければならない.それ以前から存在はしていたものの,1816年にベルリン大学で学則が改正されると,私講師は数の上でも,また学部における比率の上でも存在感を大きく増した.私講師は教授資格試験に合格して教授資格を取得したが,通常その教授資格はある特定の領域に限られ,したがって学問の専門分化を促進した.また,教授資格の付与は学部の専権事項であった(後に政府が介入するようになるが).また,教授資格試験は,教授資格申請論文と口頭試問により行われたが,論文は独立した科学的探究でなければならず,それを書くには博士号取得から数年かかるのが通常であった.私講師の増大は,学問を志す人々の増大を示しており,フンボルト時代以降の大学が有していた名声や,知的な英雄としての私講師像がうかがえる.また,私講師が増えたことにより,大学以外に収入を持たず,私講師から昇任によって教授になる者が増大し,それと入れ替わるように,教授資格試験を経ずに教授になった人物は減少した.

哲学部の興隆

三月前期,哲学部ははじめて他の学部と対等の立場になり,後には優越するようになった.哲学部の成長は,学生数の増加や教授の給与の増大に示される.また,フィヒテやシェリングをはじめとする名立たる学者たちの名声や,哲学,文献学,歴史学はすべて哲学部のものであった.ベルリン大学哲学部の目標は,学則によれば,専門学部に進む学生のための基礎教育と,哲学部の学問それ自体の推進であったが,それらはどちらも同一の「純粋に学問的な」手段によって追求されるべきとされた.その結果,研究方法に力点が置かれ,研究成果がすべての教育の基礎とされた.

哲学部の成長にとって,ギムナジウムや実科学校などの中等教育の教員養成という任務はきわめて重要だった.18世紀のラテン語学校では教員は神学部出身であったが,19世紀に入るとフンボルト,ジューフェルン,ニコロヴィウスらの改革により,教員ポストの世俗化が図られた.アビトゥーアの導入(1812),古典語と数学を重視する新人文主義的なカリキュラムの導入(1816)の他,とりわけ教員採用試験の導入(1810)によって国家が中等教育に影響を及ぼすことが可能となった.続々とギムナジウムが新設され,既存のラテン語学校もギムナジウムに改編される中,教員養成の任には哲学部があたったのだった.

三月前期の哲学部の学生の構成を見ると,注目に値するのは,自然科学を学ぶ学生数がかなり増えていることである.これはベルリン大学の例から分かる.彼らは中等学校の教師を目指して大学に入学した.実際,ギムナジウムで数学や物理を教える教師の需要は増えていたのである.とはいえ,主な就職先だったのは,おそらくギムナジウムではなく,実科学校である.実科学校ではギリシア語を教育する義務はなく,(卒業生は大学には進めなかったが)数学と物理学に重点が置かれていた.

教員養成という任務により,大学はゼミナールを設置したが,そこで行なわれたのは純粋学問的な教育であり,その結果大学の研究志向は強まった.1783年にハレ大学の教授となった文献学者ヴォルフの例はそのことをよく示してくれる.彼は神学部でやはり文献学を教えていたニーマイヤーとそのゼミナールを厳しく批判し,文献学をひとつの専門分野として教授すべきことを主張した.そのためには学生は中等教育において専門的な教員からの教育を受ける必要があり[?],これは大学における文献学教育の改革と不可分に結びついているという.ヴォルフは何がしかの教育学的理論による文献学の教育ではなく,専門的な研究を通じての文献学の教育を志向した.1787年に彼がハレに設置した文献学ゼミナールでは,将来の牧師のための訓練と教師のための訓練を分離し,国家へ有能な教師供給すること,学生に対して研究方法と講義法の訓練を与えることが目標に掲げられ,特に教育学理論に惑わされずに文献学という学問の実質的な内容を強調しようとした.

ヴォルフのゼミナールや教育の方針は,フンボルトやジュフェルン,アルテンシュタイン,シュルツェに認められ,実質的な標準として採用された.将来の教員に対する教育は,厳格に学問的であるべきであり,教育理論は不要である(教育効果は学問的成果から勝手に従う)というのである.また,ベルリンでは,ヴォルフのゼミナールを模範にしてベックが文献学ゼミナールを開設した.これは大学の公的機関であり,その長たるベックは直接文部省に対して責任を負った.学生の正規メンバーは8名で選抜制であり,毎週の討議や隔週の研究発表など,少数精鋭の教育を受けた.ゼミナールのメンバーに選ばれることは名誉であり,またさまざまな特典が付与された.その後,ベックのゼミナールは,プロイセンにおける他の文献学ゼミナールの模範となった.歴史学や神学では,神学のゼミナールのモデルが採用されたが,独自の研究が重視された.

ゼミナールの発展は,批判という方法が教育され,学生に受け継がれるための制度的基盤となった.

プロイセンの大学における自然科学

文献学や歴史学における教育の変革は,他の学部にも,哲学部内部の他の分野——特に自然科学——にも波及した.

1795年から1820年までは,自然科学はドイツの大学改革においては特に重要な役割を果たしていなかった.これにはさまざまな要因があるが,もっとも重要なのは,二つの伝統が対立していたことである.ひとつは「教育的伝統」であり,この枠内で教えられる科学は初等的かつ実利的なもので,上級学部へと進む学生に向けられていた.もうひとつは「哲学的伝統」である.これはゲーテなどに見られる主観的でロマン主義的なアプローチに代表され,シェリング以降の自然哲学へと継承される.またそれは,実利的・経験的科学観を批判し,科学研究のための哲学的基礎を作り上げようとした.

「哲学的伝統」の擁護者として,オーケンを挙げておこう.彼は1809年の講演で,科学の真の価値は知性を鍛え,精神を覚醒させることにあるのであり,自然哲学は大学におけるすべての学問の基礎になると述べた.オーケンにとっても,独創性は重視されるべきであった.「哲学的伝統」がどれほど強力であったのかは判断しがたいが,しかし,自然哲学が無視できない勢力を誇っていたことは,1814年,ベルリン大学でフィヒテの後任にフリースではなくシュテフェンスが選ばれたことに現れている(着任したのは,シュテフェンスではなくゾルガーだったが,彼もまたシェリングの弟子だった).

だが自然哲学は,それまで大学で主流だった「教育的伝統」を置き換えることに成功しなかったように思われる.科学内部のこの対立が,科学に低い地位しか与えられなかったことを説明してくれる.実際,文献学者や歴史学者にとって,「教育的伝統」はパンのための学問であって,新しい学問のイデオロギーにそぐわないものだった.彼らはロマン主義的な学問に対してシンパシーを抱いていたが,新しい人文学とロマン主義のあいだには,それでは埋められない違いがあったのである.特に,ロマン主義的な学問には,独創性,研究方法,厳密さといった,新しい人文学に特有の要素が欠けていた.

1840年以降になると,科学者は学問のイデオロギーに沿った形で自然科学を擁護するようになる.自然科学もまた,精神(Geist)と教養(Bildung)を高めることができるというのである.また,自然科学の教育も,文献学と同じく,それ自身を目的としなければならないと考えられた(ヤコビは書簡で「何の役にも立たないことは学問の誉れです」と書き送っている).自然科学者は,自分たちの研究が学問のためだけではなく,個人の道徳的・倫理的発展にも資すると考えた.

文献学と同じように,自然科学は中等教育の教員養成の必要から大きな利益を受けた.1825年には,総合自然科学ゼミナール(Seminarium für die gesamten Naturwissenschaften)がボン大学に設置された.これは文献学のゼミナールとは異なり,教育的な目標に重きを置いており,また財政的な支援も限られていた.このことは,この時期における,文献学と自然科学の「学問的な」地位の違いを反映している.しかし,ボンのゼミナールは,ドイツの大学に研究施設が普及するための重要な一歩となった.

1830年以後,プロイセンの科学は大きな発展を遂げるが,これに対しては,人文学的な研究モデルが大きく寄与していたと考えられる.数学者のヤコビはベルリンでベックの文献学ゼミナールに参加した.その後ヤコビは,フランツ・ノイマンとともにケーニヒスベルクに数学・物理学ゼミナールを設置したが(1835/36),そこに持ち込まれたのは文献学ゼミナールの教育手法であった.フランツ・ノイマンもまた,ゼミナールにおける純粋に科学的かつ研究志向の方針を力説した.ケーニヒスベルクのゼミナールは多くの科学者を輩出し,その後,ドイツ中の大学で数学・物理学のゼミナールの標準的な形式となった.実験室の拡大とあわせて,新世代の科学者のあいだで研究義務が確立するための要因となったのである.

Written on January 22, 2017.