■ボルツマンぜんぶ読む (2) 生涯と業績——Darrigol 2018
Olivier Darrigol, Atoms, Mechanics, and Probability: Ludwig Boltzmann’s Statistico-Mechanical Writings—An Exegesis (Oxford: University Press, 2018), Ch. 1.
きわめて活発かつ多面的に活動したボルツマンの生涯と業績のまとめである.ボルツマンの最初の業績は1866年の,熱力学の力学的基礎に関するものであった.これはのちにクラウジウスと先取権に関する(小さな)あらそいを引き起こした.
1869年から73年のグラーツ時代.1870年と71年の2回,ベルリン大学のキルヒホッフとヘルムホルツを訪問してマックスウェルの電磁気学に関する議論と実験を行った.このときのヘルムホルツとの関係は後で効いてくることになる.1868年,前年に出版されていたマックスウェルの気体運動論の成果を一般化してマックスウェル=ボルツマン分布を導出した.ここで使われた分布の平衡条件に関するボルツマン恒等式は,のちのちまで重要な役割を果たすことになる.彼は確率を定義するときにおおむね滞留時間によるものを採用したが,この方法では厳密には無限個の分子が必要になってしまう(衝突にともなって分子間に速度の相関が生まれてしまうため).そのため,ボルツマンは,今日でいうミクロカノニカル・アンサンブルによる導出も行った.この方法は気体に限られないきわめて大きな一般性を持っていたが,(いわゆる)エルゴード仮説の妥当性には疑問を付したため,その後は運動論的なアプローチに戻った.
1871年,ボルツマンは気体論に関して3本の論文を出版した.1本目は運動論によるものだった.しかし,2本目ではアンサンブル的な手法を用いてもおり,その中ではエルゴード系の小さな部分系がマックスウェル=ボルツマン分布を満たすことを示してもいる(これはのちのカノニカル分布にあたる).また,3番目の論文では,エントロピーの運動論的構成を再び試みている.1868年から71年までの3年間の達成には目を見張るものがある.72年に行ったのは,マックスウェル=ボルツマン分布の一意性を運動論的なアプローチで示すことだった.いわゆるH定理であり,Hはエントロピーと一致する.ここで興味深いのは,H定理の一般化を行う際に,マクロな系のアンサンブルを導入し,そのアンサンブルの統計的な振舞いがマクロな系の時間的な振舞いと一致することを仮定する必要があることだ.そのため,ボルツマン仮説——物理的に可能な時間の範囲内では,アンサンブル中のほとんどの系の時間平均はほとんど同じである——を導入した.またボルツマン方程式から粘性係数や熱伝導係数を計算した.ただしマックスウェルと同様,5乗則を導入しないと積分が評価できなかったのだが.
1873年から76年にヴィーン大学数学教授を務めた後,ボルツマンは1876年から90年はグラーツ大学一般および実験物理学教授として,もっとも生産的かつ幸福な時期を過ごした.1877年のロシュミットの論文への応答が,第二法則の統計的解釈のきっかけとなった.ある気体のマクロ状態と整合的なミクロ状態は数多く存在するが,そのうちの大多数はより一様なマクロ状態へと至る傾向を持ち,系はより高い確率を持つ状態へと移行する(ボルツマン原理).もちろん,これ以前にボルツマンが確率論的な性格をまったく認識していなかったわけではないが.また,離散化の手続きはこの論文がはじめてではないのだが,状態の確率を定義する上ではより本質的な役割を果たすようになった.しかしボルツマンにとっては,それは以前に得られていた結果の数学的意味の解釈でしかなかった.衝突数に関するロシュミットとの論争は続いたが,分子の速度どうしの相関は平均自由行程の長さを考えれば問題なくなるだろうと考えた.また,外場が存在する場合への拡張という課題については,英国のワトソンのハミルトン形式に基づいた気体論の成果を用いることで対応した.等分配則と多原子分子の比熱の問題についてもワトソンは注意していた.ボルツマンはワトソンのレビューの中で,この問題に対する解決を提案したが,マックスウェルはこれに反対した.スペクトルの観測などから,分子には多くの自由度があり,これは等分配則によって比熱に寄与すると考えられたからである.また,比熱は温度に依存するようにも見受けられた.これに対してボルツマンは,低温ではいくらかの自由度が「凍る」のではないかと提案し,また曖昧な形ながらも,このメカニズムと放射との関係を示唆した.他方でマックスウェルの逆5乗則もビリヤードボール・モデルも気体の輸送係数を説明しないことが明らかになった.ボルツマンは真実はこの中間にあると期待し,ビリヤードボール・モデルに関するボルツマン方程式を考えた.これは,気体の粘性に関する1880年から81年にかけての論文と,気体の拡散に関する82年の論文で展開された.しかし,輸送係数に関する予測を出すことには失敗した.
1879年,マックスウェルはアンサンブルの方法を展開した.新しい成果は特になかったものの,ボルツマンの方法よりはエレガントで理解しやすかった.ボルツマンは,以前の自分のアプローチと似ているこの論考を見て喜んだであろう.ボルツマンはマックスウェルの論考を詳しく紹介した.その中で「ほとんどすべての初期位相」に関して,アンサンブル平均が時間平均と等しいであろうことを述べているが,しかしこれはあくまでも確からしい前提であるのみだとも言う.1884年にはヘルムホルツの単循環系に関する論文を出版し,アンサンブルを用いた議論を展開した.ただしここでは,アンサンブルは純粋な力学系とみなされており,統計的な解釈を施される必要はない[?].この論文は,ボルツマンにとって,認識論的な観点からも重要だった.外界との完全なアナロジーを提供できる物理理論は存在しないのである.
1885年から90年にかけては身内の不幸が続き,大学でも重責を担わされるなど,ボルツマンにとっては精神的な不調の続く重苦しい日々であった.テートからはH定理と等分配則に対する批判が,バーンサイドからは等分配則に対する批判が,クリースからは統計的な法則の認識に関する批判,ローレンツからはH定理の証明に関する批判があり,それぞれにボルツマンは応答した.とくにローレンツへの応答は多原子分子に関するH定理の証明の改良をもたらした.
1890年から1894年にはボルツマンはミュンヘン大学教授を務めた.マックスウェルの電磁気学の講義を行うほか,トムソンの等分配則に関する疑義に応答するなどした.
1894年から96年にはふたたびヴィーン大学で教えた.英国のブライアンとは生産的な議論を行い,逆衝突に訴えないH定理の証明方法を提案した.またキルヒホッフの講義録をめぐる議論や,英国における議論の中で,分子混沌の仮説やH定理の統計的解釈を明確化した.しかし,H曲線に関する定量的な議論は行っていないし,またボルツマン方程式がなぜ系の時間発展を記述できるのかも説明しなかった.他方でドイツからは批判が続いた.ツェルメロの,エントロピーが増大するプロセスと減少するプロセスは同じだけあるのではないかという批判に対しては,宇宙の初期状態は低いエントロピー状態にあって,宇宙の任意の部分はエントロピーが増える傾向にあると応答した.
1896年と98年にはボルツマンは『気体論講義』を出版した.これは気体運動論への最後の貢献となった.ここで彼は一部でアンサンブルの方法は導入するものの,ボルツマン仮説に対する自身がないために,その後の議論では使用しなかった.それよりは,分子混沌の仮説に基づいた衝突数の考察の方に自身があった.1898年から1906年には哲学的な考察へ向かい,物理理論の構成的な本性,その経験的世界とのアナロジー,多元論の擁護,経験的基礎づけの進化に関する考察を残した.