■ファインマン・ダイアグラムの拡散 (9)——Kaiser 2005

David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 9.

1950年代後半から1960年代前半にかけて,チューはファインマン・ダイアグラムを再解釈して強い相互作用へと適用した.「場の量子場の理論は,強い相互作用については放棄されるべきだ」とするチューのS行列の理論は,1960年代にはきわめて大きな影響力を及ぼした.「核民主主義」という彼の言葉が,当時の政治的状況を文字通りそのまま理論に反映させたものだとは言えない.物理学ではしばしば政治的な言い回しが見られるため,チューが自身のアプローチを「核民主主義」と呼んだのも驚くに値することではないし,彼の政治的見解そのものも,とくに左翼的であるとかリベラリズムであるとかいうわけでもない(むしろ1960年代後半のチューは,バークレーにあっては珍しく若干保守的である).だが,チューが「核民主主義」と呼んだアプローチが生まれたという事実に対しては,やはりなぜその時,バークレーだったのか,という疑問が生じる.それは,当時のバークリーにおける政治的な背景がいくらかの影響を与えたものと見ることができる.

1949年秋,チューは若干25歳でカリフォルニア大学バークレー校に着任したが,早々にマッカーシズムと反共の嵐が吹き荒れることになった.とくに問題になったのは「忠誠宣誓」であり,1951年6月までにこれに署名しなかった理論物理学科の教員は全員が解雇されるか辞職した.チューもみずから辞職してイリノイ大学に移った.1950年代にチューは政治的活動に深く関与するようになり,アメリカ科学者連合(Federation of American Scientists)ではパスポート取得などの権利と平等を求めて闘争した.忠誠宣誓とパスポートをめぐる闘争の過程で彼は,権利と平等を守るためには適切なチャンネルが必要であるとの教訓を得た.

忠誠宣誓をめぐる訴訟が非署名者の側の勝訴で終わると,1957年,チューはバークレーに呼び戻され,そこで大規模な院生のグループを率いた.彼は「秘密セミナー」を開いて院生たちと親しく接するとともに,強い相互作用に関する会議で院生たちにも発表させようと奮闘した.チューの「核民主主義」は,すべての粒子を平等にあつかうという意味で民主主義的であったばかりでなく,その探究の進め方も,場の量子論のような熟練を必要としないという意味で民主主義的であった.すべての粒子を平等に扱うに際して,「核民主主義」「平等な取り扱い」「平等な参加」といった当時の物理学の内部にはなかった用語を導入したのは,平等を求める政治的闘争が背後にあったことが考えられる.S行列の理論は,講義,サマースクール,講義ノート,そして教科書を通じて普及していった.

だが,バークレーから離れたところでは事情が違った.たとえばゴールドバーガーのいたプリンストンではチューの熱狂は共有されず,むしろ場の量子論に基づいたアプローチで強い相互作用の問題を考察した.しかも彼らによれば,S行列の方法は場の理論を補完する立場にあるという.バークレーにはほとんどS行列しかなかったが,プリンストンではS行列も場の理論も共存し,院生たちは場の理論の訓練を受けたし,ブートストラップについて論ずるときにも素粒子と複合粒子の区別を維持した.その後,チューのS行列理論はほとんど「宗教的」であると批判されるようになっていく.さらに,S行列の理論が量子場などそもそも存在しないことを含意しているのか,あるいは便利な計算テクニックに過ぎないものなのか,についての見解も地域差があった.

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Written on February 15, 2019.