■ファインマン・ダイアグラムの拡散 (7)——Kaiser 2005
David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 7.
紙や機械類の不足にもかかわらず,戦後の米国では教科書に対する需要が急激に増大し,それは理論物理学にとっても例外ではなかった.というよりもむしろ,物理学の学生は他の分野に比べて倍のペースで増加したのだから,いっそう需要はあった.しかし,ファインマン・ダイアグラムに関する教科書がすぐに出版されたわけではない.ダイソンは論文を書いただけで,教科書は出さなかった.
初期の教科書としては,マンドルの『場の量子論入門』(1959)およびヤウフとローアリッヒの『光子と電子の理論』(1955)が挙げられる.これらに共通するのは,ひとつの理論ではなく,テクニックとしてファインマン・ダイアグラムを導入したことだ.進歩が早いQED業界においては,それこそが,とくに大学院生やポスドクによって,求められていたことでもあった.ところでわれわれはファインマン流とダイソン流のふたつのスタイルを見てきたが,この違いは教科書にも反映されている.シュウェーバー,ベーテ,ド・ホフマンの『メソンと場』(1955)はダイソンのアプローチを採用すると宣言している.しかしそれは完全ではなく,論述の流れを追っていくと,ある程度ファインマン流の解釈も採用されていることが分かる.マンドルの教科書も同様である.ビヨルケンとドレルの『相対論的量子力学』(1964)はもう一歩進めて,数式ではなくダイアグラムの方がより基本的であるとした.まず図から始めるのである.さらに,トホーフトとヴェルトマンによるCERNの報告書(1973)では,図のほうが根源的であり,他のすべてはそこから出てくる,とより強い主張がなされている.
大学院生たちは,実践することでファインマン・ダイアグラムを学んだ.読むだけでは十分ではなく,実際にノートに図を書くことで習得したのだ.それは教室でも,教科書でも,サマースクールでもでもそうだった.ダイアグラムを教えるときには,とにかく図を描くことが重要であり,それを計算して評価することは後回しにされた.ファインマン・ダイアグラムのあまりもの拡散に,学生が摂動論とほかのものとを混同してしまうのではないかとの怖れもあったが,結局,ダイアグラムの普及は止まらなかった.それは,大学院生やポスドクのノートを見ることで明らかになる.彼らはダイアグラムを使用した教育を受けており,それを使うことはもはや内面化されていた.また,ファインマンやダイソンのもとの論文が参照されることもなくなった.つまり,理論家たちのあいだで,ファインマン・ダイアグラムはお馴染みの道具になったのである.
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