■ファインマン・ダイアグラムの拡散 (6)——Kaiser 2005

David Kaiser, Drawing Theories Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (Chicago: The University of Chicago Press, 2005), Ch. 6.

第1章で,大学ごとにファインマン・ダイアグラムの特徴が異なることを指摘しておいた.しかし,厳密にはたがいに異なっていても,われわれはそれらが同じファインマン・ダイアグラムであることを認識できる.これは,ヴィトゲンシュタインの言葉を借りれば,「家族的類似性」のためである.この場合,類似性をもたらすのは,誰から図の書き方を学んだか,何のために図を使ったか(どのような実験が念頭にあったか),というローカルな文脈である.

1948年から翌年にかけて,クロル(とカープラス)はIASでダイソンの同僚のポスドクとして勤務していたが,ダイソンが行っていた高次の放射補正の計算をチェックするという仕事を引き受けた.基本的にはQEDにおける高次の項を計算する仕事である.クロルらは49年10月になってようやく結果を投稿できたが,その方法はダイソンのそれを継承していた.ダイアグラムは摂動計算におけるミスを防ぐ「記憶術」の役割を果たし,高次の補正を入れた磁気モーメントの値を出すことを可能にした.クロルはその後コロンビア大学に移り,同地のポスドクたちにダイアグラムの方法を広めるとともに,そこでクッシュらを中心に行われていたラム・シフトに関する実験と協働した.

ロチェスター大学にいたマーシャクは,ダイアグラムの方法を直接ファインマンやコーネル大学の理論家から学んだ.ロチェスターとコーネルのあいだには非公式のミーティングを通じて密接なつながりがあった.マーシャクらの関心は原子核,とくにメソンにあり,バークリーなどの実験家たちとの情報交換もしながら,メソンと核子の相互作用ハミルトニアンを見出すことが課題だった.メソンの結合定数はきわめて大であるため,QEDにおける摂動法は使えなかったが,ファインマン・ダイアグラムを拡張して可能なモデルの定性的評価を行い,シンクロトロンを使用した実験結果と比較して見込みのあるものを選択した.このようなアプローチは,たとえばマシュー,サラム,さらにベーテやダイソンらの手法(くりこみ可能性の評価)とは異なる.また,マーシャクらのダイアグラムは,ダイソンらのものとは描き方も意味も異なっていた.そこには粒子と反粒子を区別するための矢印はなかった(必要なかった)し,またそれは実際の物理的プロセスの表現とみなされた.

ベーテによるファインマン・ダイアグラムの使用法は,多体系,とくに低エネルギー領域の核物理や固体物理への適用を目指した新しい近似計算であり,これはクロル(記憶術)とマーシャク(物理的描像)の中間と言える.ベーテ自身はファインマン流にダイアグラムを描き,サルピーターとともに粒子の束縛状態を考察した.そこでハシゴ図(ladder diagram)という新しい図法も考案された.彼らの成果はまだダイソンの影響が残っていたIASにいたゲルマンとロウの知るところとなった.ダイソンがファインマンの図法に「導出」を与えたのと同様に,ゲルマンとロウはベーテらの図法に「導出」を与えた.この結果が1951年秋に出版されるとさまざまな領域にダイアグラムが適用され,1960年代までには多体問題や固体物理もその適用範囲に含まれるようになった.ここで関わった物理学者たちのあいだに直接の交流(師弟関係あるいは先輩・後輩・友人関係)があることは言うまでもない.

クロル,マーシャク,ベーテらのアプローチはそれぞれ違うため,彼らはある意味で「学派」を形成したと言える.しかしこの学派の壁は絶対ではなく,一方が他方のものにきわめて近い手法を採用することもあった.学派のあいだの違いはむしろ,何をテーマにするか,何を教えるべきか,についての地域的な違いであった.つまり,コロンビアの実験家たちが何を扱っているか,ロチェスターの実験家たちが何を測っているのか,といった,地域ごとの実験テーマの違いが理論家たちに影響を与えたのである.欧州からアメリカに渡った物理学者として,ダイソンの報告は興味深い.彼によれば,アメリカにおける物理学教育の「哲学」とは,理論と実験の緊密な連携であり,これはダイソンがケンブリッジで受けた訓練とはまるで別物であった.マーシャクなどのアメリカの理論家たちは,ファインマン・ダイアグラムを用いてとにかく実験と比較できる理論値を計算することに全力を注ぎ,そのために発散項を単純に無視することもしばしばだった(対して英国では,ファインマン・ダイアグラムの形式的な側面に注目が集まった).1950年代中盤には,IASのポスドクのあいだでは「場(フィールド)の理論屋と家(ハウス)の理論屋がいる」という冗談が流行っていた.その心は,実験屋におつきの「家の理論屋」など馬鹿馬鹿しいというものだったが,実際には,そのような区別はなかったのだった.

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Written on February 7, 2019.