■原子価結合法・分子軌道法・教育——Park 2005
Buhm Soon Park, “In the ‘Context of Pedagogy’: Teaching Strategy and Theory Change in Quantum Chemistry,” in Pedagogy and the Practice of Science: Historical and Contemporary Perspectives, ed. D. Kaiser (Cambridge, Mass.: The MIT Press, 2005), 287–319.
科学史における教育の諸相を扱う論集の一論考.量子化学において,分子軌道法が原子価結合法にとってかわったプロセスを題材に,教育の役割を論じる.中心人物はクールソンとデュワーである.とくにクールソンは,原子価結合法の混成などの概念を分子軌道法の言葉遣いへと翻訳し,分子軌道を視覚化するなど,有機化学者とのコミュニケーションと教育戦略で成功をおさめた.この教育的プロセスには,知識伝達の創造的側面がみられる.
レナード・ジョーンズから影響を受けたクールソンは,もともとポーリングが原子価結合法に導入した混成の概念を分子軌道法に接合し,また共鳴の概念をも取り込んでベンゼンの考察をきわめて視覚的に仕方(ドーナツ・モデル)で行った.これは有機化学者にも理解できた手法だった.注意すべきは,クールソンは原子価結合法が間違っていると考えたわけではないということである.彼は『原子価』(1952)の中でたしかに分子軌道法の視覚的な特性を強調したが,表向きは二つの方法を丁寧に論じて比較していた.そして,それゆえに化学者が分子軌道法を採用するようになったのである.ただし,ポーリングは,『原子価』は教育上の混乱を招くのではないかという理由から批判的であり,また混成,共鳴,最大結合強度などのアイディアをめぐってクールソンと対立した.
他方で有機化学出身のデュワーは,戦時研究でトロポロンの構造を決定する際に原子価結合法と分子軌道法に触れた.原子価結合法と共鳴概念については,混乱を招き,不便であるとして,積極的に批判した.しかし,分子軌道法のほうが簡便であるという彼の『有機化学の電子論』(1949)の議論は,ほかの化学者にとって十分に説得的であるとは言えず,教育面においても悪影響だと批判された.しかし,デュワーの教科書とクールソンの概説論文が有機化学者に影響を与えたのは間違いない.
1970年代までには,分子軌道法は化学教育において必ず扱われる事項になった.この状況はポーリングにとっては,教育的観点から好ましくないことだった.原子価結合法のほうがはるかに単純で,分子軌道法は学生を混乱させる,「成人指定」されるべきものだというのである.このような発言は,量子化学の研究者にとって,教育的含意が無視できなかったことを示している.クールソンは二つの理論がたがいに翻訳可能だと述べたのに対し,デュワーは論争的に分子軌道法の簡便さを強調したが,いずれにせよその教育的戦略が量子化学における理論変化にとって本質的だった.