■波動力学以前のシュレーディンガー——Mehra and Rechenberg 1987
J. Mehra and H. Rechenberg, The Historical Development of Quantum Theory, Vol. 5 (New York: Springer, 1987), Foreword and General Introduction.
量子論の歴史を包括的に記述したMehraとRechenbergの大著 The Historical Development of Quantum Theory の第5巻は,シュレーディンガーの波動力学に関するものである.その導入部を読んだ.
シュレーディンガーは波動力学,特にシュレーディンガー方程式の定式化(1926)で知られるが,これは1926年に突然出現したのではない.ド・ブローイの物質波の影響もさることながら,シュレーディンガーのそれ以前の研究の文脈の上に波動力学の形成を位置付けるべきである.
1925年前後の量子論をめぐる状況をまとめておく.1925年のハイゼンベルクの行列力学,そしてディラックのq数の理論によって新しい力学——量子力学——が誕生し,このような代数的なアプローチが量子の世界では本質的なのかと思われたが,1925年12月にボルンとウィーナーが示したところでは,古典力学と量子力学の違いはそれほどに大きくはない.彼らの「演算子力学」では,古典力学の微分方程式が回復するどころか,量子論的な問題がそれに対応する古典論的な問題と同じ解を持つことがある.同様のことは,同じ時期に,ランチョスの線形積分方程式の理論でも主張されていた.1926年初頭の段階では,ハイゼンベルク=ボルン=ヨルダンの行列力学,ディラックのq数の理論,ボルン=ウィーナーの演算子力学,ランチョスの積分方程式表現の四つの等価な理論があり,それらを使って原子理論の困難を解消し,またさらに応用することが目指された.しかし,物理学者たちはより簡便な表現を求めた.シュレーディンガーの波動力学はこの課題に答えるものであり,偏微分方程式による強力な計算法として機能した.
いくつかの疑問が湧く.いったいどのようにして,ハイゼンベルクの行列力学が登場してまもない頃にシュレーディンガーは代替案を提示してたのだろうか?また,どうしてチューリヒという,特に量子論において際立った業績を挙げていたわけでもない場所から波動力学が登場したのだろうか?さらにシュレーディンガーは当時37歳で,統計力学などの分野では認知されていた一線級の物理学者だったが,どうしてこのような人物からブレークスルーが生まれたのだろうか?
1900年代から1920年代にかけて,シュレーディンガーは,物理学,気象学,色彩論,生理光学,生物学といった,きわめて広範な領域で研究を行っており,物理学に限っても,磁気,異常散乱,固体の原子構造,格子力学,一般相対論,ゆらぎといった諸問題について論文を書いていた.シュレーディンガーは1912年ごろから原子理論に関わっており,十分な知識を備え,評判も得ていた.さらに,チューリヒという地理的状況は,外野から原子理論の状況を注意深く観察することに役立った.また,波動力学誕生の直前には,チューリヒでシュレーディンガーは統計物理学の問題に集中しており,これが波動力学の形成に寄与した.シュレーディンガーは,量子力学の完成期にあたって,同種粒子の統計という,当時の量子力学の中心的な話題からはやや離れた問題をプランクと議論していた.これは観察者としての彼の態度から来たものだが,これが波動力学の定式化へとつながった.波動力学は,行列力学との等価性が証明されると,すぐに物理学者のあいだに広まっていった.また,行列力学とは対照的に,連続的な特徴をもっていた.