■Badino, Historians of quantum physics (2017)

M. Badino, “What Have the Historians of Quantum Physics Ever Done for us?”, Centaurus (2017), n/a–n/a (online version).

量子物理学は,物理学内部のみならず,きわめて大きな文化的影響力を持っており,したがって,科学史の側からもその歴史についての多くの探究がなされてきた.近年,量子物理学史(HQP)のプレゼンスは落ちてきているようであるが,それでも多くの新しい研究が生まれている.

量子物理学史は早くも1930年代に,ローゼンフェルトなどの物理学者の手によって始められていたが,科学史家による研究は1960年代に始められた.代表例としては,Max Jammer の The Conceptual Development of Quantum Mechanics (1966) が挙げられる.この本は,まず概念の歴史的展開を追うということ,そしてそれは何よりも量子力学に関するものであったということ,この二点によってその後の研究の潮流を決定づけた.また同時期には,Archive for the History of Quantum Physics の計画がスタートし,インタビューを含む貴重な資料群を提供した.1970年代後半から,科学史家はさまざまな「転回」に直面した.量子物理学の歴史がそのような「転回」に対して反応するのは遅かったと言えるが,Galison と Warwick が Studies in History and Philosophy of Science で「理論の文化」と題する特集号を組んだとき(1998)から潮目が変わり,文化的・社会的・政治的要素にも目が向けられるようになった.

Galison & Warwick 以来の新傾向として,史料,語り,科学哲学が挙げられる.史料に関しては,まずはデジタル化の進行が重要な潮流である.これは利用可能な文書の量とそれへのアクセシビリティを飛躍的に増大させた.またそれにより,影響関係を新しく発見したり,新しい登場人物を発掘することも以前と比べれば容易になった.往復書簡は公刊論文を補完するものではなく,登場人物のあいだの方法論的なバイアスや緊張関係など,より繊細なニュアンスを与えるために重視されるようになった.会議の議事録や,教育用の文書(教科書)などにも新しい角度からの光が当てられている.

1960年代から1970年代には,Jammer流の量子力学の歴史が,すなわち,欧米の白人男性の原子理論家に関する歴史が語られていた.いまやこの様子は一変している.まず,近年の量子物理学の歴史は,原子理論以外にも,より広い範囲の対象が扱われている.単純に方程式や理論に限っても,伝統的な熱力学的・統計力学的アプローチの重要性が見直されているし,それ以外では,応用や実験の役割が前期量子論や固体物理学の文脈で再検討されている.また,量子物理学とその他の分野の境界領域(量子化学や量子重力など)の歴史も注目を集めている.地理的・ジェンダー的要因の考察も,一定の蓄積はあるとはいえ,今後のさらなる研究が待たれる.こうした量子物理学史の潮流は,単に知的なだけではなく,社会・政治・文化などの要素をも組み込んだ新しい観念史を指向していると言える.この15年のあいだに出版された多くの物理学者の伝記はこの潮流に沿ったものであるが,そこには,解釈的な伝記と社会的・政治的な伝記の二つの流れがあるように思われる.

量子力学が哲学的にきわめて魅力的だったのは疑いがない.しかし,量子物理学の歴史と哲学とは,かなり後になるまで結びつくことはなかった.論理実証主義が歴史を放棄したこと,「理論」という言葉に対する見解が,歴史家と哲学者のあいだで異なっていたことなどがその原因である.歴史家は,日々の研究から,それほど無邪気に「理論」というカタマリを表す言葉を使う気にはなれないのである.これに対しては,「実践」を歴史的分析の単位にするというオプションが考えられている.またより直接に,歴史的研究に哲学的な立場を反映させることも試みられている.科学哲学と科学史の協同は近年,制度的にも推進されている.

それでは結局,量子物理学の歴史家たちは何をしてきたのだろうか.2014年にGuldiとArmitageは History Manifesto の中でマイクロヒストリーを批判し,より長期的な歴史を書くべきだと主張したたが,科学史家は1990年代前半から同様の方向に向かってきたし,またとくに,技術的詳細とその他の要素が結びついた新しい観念史という近年の量子物理学の歴史の傾向も同様である.量子物理学の歴史は,歴史学全体にとって大きな利益になる可能性がある.

Written on August 15, 2017.