■McCormmach on Poincaré's quantum theory (1967)
R. McCormmach, “Henri Poincaré and the quantum theory”, Isis 58 (1967): 37–55.
ポワンカレの量子論についての古典的研究.1911年10月30日から11月3日にかけて開かれた第1回ソルヴェイ会議に出席するまで,ポワンカレは量子論に特にコミットしていたわけではなかったが,彼は会議での議論に熱心に参加した.それは量子論が「統一」という彼の科学的理想に適うからだった.ソルヴェイ会議で議長を務めたローレンツは,量子仮説の必要性を示すことと,放射のメカニズムを解明することが必要だという認識を示したが,ポワンカレが会議から帰国して取りかかった研究はまさにこの二点にかかっていた.
ポワンカレは会議から帰国した後,12月4日にはパリのアカデミーで自身の考察を報告し,翌年1月には Journal de physique 誌に「量子の理論について」(Sur la théorie des quanta)を出版した.この1912年の論文でポワンカレは,量子仮説が放射則にとって必要かつ十分であること,さらに黒体放射の全エネルギーが有限であるためには自然法則が非連続的でなければならないことを示し,自然法則を根本的に変更しなければならないと主張した.これはソルヴェイ会議でネルンストやランジュヴァンと検討していた,質量を物体の速度と加速度に依存させることでプランクの放射則を導くというアイディアを否定することでもあった.しかしポワンカレは,アインシュタインの光量子論にも,エーレンフェストの論文にも言及していないことから分かるように,量子論の文献にはあまり通じていなかったようだ.
ポワンカレは「量子の理論について」を出版した半年後に死去したが,その影響は大きかった.これにはおそらく,彼のもつ権威がはたらいていただろう.ブリルワン(単色放射の仮定が単純過ぎるのではないか),オイケン(エネルギー保存と運動量保存を放棄すれば自然法則の連続性は保たれる),マクラレン(最小作用の原理を否定すれば自然法則の連続性は保たれる)などからは批判が寄せられた一方で,フランスでは明らかに量子論に関する論文数が増大したし,英国では1913年にバーミンガムで開かれたBAASでのジーンズの講演をきっかけにポワンカレ論文の受容が進んだ.1914年にはジーンズが 『放射と量子論についての報告』(Report on radiation and the quantum theory)を執筆し,ダーウィンがポワンカレ論文を翻訳した.その後ファウラーは,スチルチェス積分を用いることでポワンカレの証明を完成させた.これらの展開を振り返ってランジュヴァンは,ポワンカレの1912年の論文は,連続な微分方程式の時代の終焉を告げるものであった,と述べている.